釼 英雄さんは大学卒業後、目指していた広告業界に飛び込み、広告・雑誌などのライターとしてキャリアを積み重ねました。
広告業界では写真とライティングは切っても切れない関係です。昔から釼さんの近くには、写真の存在がありました。
当時はバブル時代真っ只中。大変ながらも、仕事は充実していたと言います。
その後ニューヨークで広告を学び、帰国後フリーランスに転身。フリーランス歴は約30年におよびます。
バブル当時はカメラマンとライターは別々に仕事を請け負っていましたが、不況になってくるとライターが写真を撮ることも増えました。釼さんもそのひとり。
今回は、フリーランスでライターを本業としつつも、副業で写真のお仕事をされている釼さんにお話を伺いしました。
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目次
辞めていく人も多かったが、充実していた広告業界。

ー大学でコピーライターを目指し、希望の業界に行けたそうですね。バブル時代のお仕事に興味があります。ぜひ聞かせてください。
1985年くらいから好景気に入りました。宝石・貴金属の商社を担当すると、仕事が途切れることなく入ってきたんです。
商品はダイヤモンドやルビー、エメラルド、真珠のプラチナリングやチェーン、ゴールドのネックレス、ロレックスなどの輸入時計。価格は数十万円から数百万円です。自分のものではないので、そこは我慢我慢でしたが。
広告ではその魅力をどう伝えるか。自分が書くコピーでは「輝石=奇跡」「真珠=ひと滴」「プラチナ=凛」などと言葉を置き換え、商品の表情をわかりやすく、小洒落た表現にすることに徹しました。
とにかく多忙で、午前中は社内でスケジュール調整や作業内容のすり合わせ。夕方からクライアントへ打ち合わせに行き、7時頃オフィスに戻ってからコピーを書きます。深夜残業や徹夜が当たり前の時代でした。
きつくて辞めていくスタッフもいましたが、クライアントから「いいコピーだ」と言われると、疲れも一気に吹き飛びましたね。
振り返ると、忙しかった反面、いろんな役得があり、良い時代だったと思います。松坂牛の肥育用牛の仕事では、1キロ3万円の肉を撮影。
「撮影後は食べていいよ」とのことで、カメラマンやアシスタント共々でご相伴に預かりました。別のクライアントでは仕事のお礼として、希少な「馬刺し」をご馳走になったこともあります。
カメラマンと仕事をする機会は多く、「ピーカン」「ガスった」「シズル」「ハレーション」などの用語を知り、ジェネレーターや露出計などの機材にも触れました。
バブルがはじけ、業界の流れが変わった。

ーバブルがはじけた後はどのような苦労がありましたか?
同じ仕事を続けるとマンネリになります。
いろんな企業の人と接するたびに、自分の知識や教養がまだまだだと思うようになって。
私はバブルがはじける前に会社を移籍したので直接の影響はありませんでしたが、デジタル化が転換点になったのは確かです。
それまで、コピーやデザインから版下制作まで行うことで、かなりの売上が立っていました。
でも、そうした作業がパソコンとソフトに置き換わり、アナログで職人気質の人は対応できずに仕事にあぶれることに。下請けの会社やフリーのデザイナーも然りです。
また、デジタル化で作業効率が上がったため、以前のような制作料は取れません。
業界全体には値下げ圧力がかかり、まさにバブルがはじけた感覚だったかと思います。
私はアパレル系のアタッシュ・ド・プレスの仕事に移り、メーカーが発表する商品をPRしたり、雑誌広告を制作したり……。
それでも、プロモーション経費が削られるようになり、じわりと不況の影響を感じました。
それでも出版社の編集者を紹介していただいたり、知り合いから仕事をもらったり。
作品が「PIE BOOKS」に掲載されたこともありました。
デジタルの時代に入ったのだから、Macを使おうと購入しました。
撮影のディレクションができ、IllustratorやPhtoshopが使えれば、ディレクターの仕事もできるかなと思ったのです。
とりあえず環境を変えて、広告デザインについて勉強し直そうと、ニューヨーク行きを決めました。1995年のことです。
ニューヨーク生活で、写真に感動!

ーニューヨークでの生活はどうでしたか?
学校ではブランド・アイデンティティ、リテイル・グラフィックなどを学びましたが、学校以外も全てが教科書でした。
街のスタンドで新聞の「ニューヨークタイムズ」や「ビレッジボイス」を買ってきては、広告のビジュアルからコピーの発想法、フォント選び、レイアウトまでチェックするのが日課に。
「これは良いな」と思うものは、自分の引き出しに収め、ミノルタα5700 iで写真を撮って、学校のレポートにも書きました。
新進気鋭のクリエーターにも接しました。
例えば、ジーン・メイヤーというデザイナーは、ユニークなアイデアをネクタイに広げ、商品化に漕ぎ着けました。
販売してくれたのは、ブルーミングデールズというおしゃれな百貨店。
おまけにオリジナルのパッケージまで付けてくれて。
デパートはお客さんに中身の濃い商品を買ってもらいたいから、デザイナーをインキュベートする。
日本ではとても考えられないことです。
当時、お寿司がすっかり定着し、日本からも有名店が進出。ただ、お店は壁面に水槽が埋め込まれたり、ウエイターがスタイリッシュな衣装で接客したりと、あくまでニューヨーク風です。
ナイキタウンがティファニーの裏手にオープンしたのも同じ頃。
エンターテイメントなお店に触れることができ、貴重な経験になりました。
マンハッタンの高層ビルは建て替えられるものもあります。
工事中のhoarding(広告兼仮囲い)がカルバンクラインの広告でジャックされていたのを見て、写真に収めました。
モデルの個性を強調するインディビジュアル広告ながら、その風景は壮観の一言。
「米国では、ブランディングはこうやるんだ」というのが理解できたのは、非常に収穫でした。
治安は1980年代よりだいぶ良くなって、夜間にジャズを聞きに行った帰りも、地下鉄でクイーンズのアパートまで帰ることができます。
ある時、人が全くいない地下鉄に出くわし、「これはチャンスだ」とミノルタαのシャッターを切りました。
モノクロフィルムで、ハイライトが効いてとてもいいカット。
すごく気に入った写真で宝物になっています。

フリーランスになって、なるようにしかならないと思った。写真の仕事もするように。

ーフリーランスになる時に不安はありませんでしたか?
1996年に帰国した後、故郷の福岡で活動を始めたのですが、これまでの経験や実績がどこまで生きるかは全く未知数でした。
それでも、渡米前に知り合いが「フリーになったら、仕事、出すよ。」と言ってくれたし。まあ、くよくよしても仕方ない。何とかなるだろうと思っていました(笑)
ラッキーだったのは、福岡が日本一元気な街として発展を続けたこと。
キャナルシティ博多に始まり、岩田屋Zサイド、福岡大丸エルガーラ、福岡三越、ソラリアステージ、博多リバレイン、トリアス久山(コストコ1号店)、ダイヤモンドシティ・ルクル(現・イオンモール福岡)などの大型施設が次々とオープン。
懇意にする編集者から「ルポを書いてほしい」と、仕事が舞い込みました。
ニューヨークで見聞きしたことが生かせると、意気込んで仕上げましたね。
他にも、ユニクロの本社が山口県の宇部にあった頃の柳井正社長(現・会長兼CEO)、ジャパネットたかたの佐世保本社では創業者の髙田 明さんにもインタビューしました。
当時は両社とも発展途上でしたが、大企業に成長する経緯を知ることができ、自分にとって貴重な財産になっています。
いろんな方々の紹介で地元のクライアントを発掘でき、ディレクターとして企画から制作までこなせるようになりました。
コピーライターの仕事は、制作予算が取れるページ物の年史などが中心で、今も続いています。
一つ一つの案件で実績を残すことが不安を払拭することにつながったと感じています。

ー写真の単価はどのくらいですか?今使っているカメラも教えてください。
単価は媒体にもよりますが、1カット500円から1000円です。
ある編集者がラーメン店「一風堂」の取材で来福した時、撮影を頼まれて使ったのがSONYのデジタル一眼レフのαでした。
彼も、デジタルカメラが高機能になり、プロのカメラマンでなくても良い写真が撮れるのはわかっていたようです。
「釼さん、いいカメラを持っているんで、次もお願いします」と、撮影依頼が来るようになりました。
2020年、『月刊コンビニ』という雑誌のグラビア企画では、博多湾の北側に位置する能古島での「ドローンの実験風景」の撮影を受けました。
雑誌に載った写真は20カット以上で、原稿料に撮影料の数万円がプラスされるので、ライターにとっては大きい仕事です。
この時は直前にSONYのαが故障してしまい、急きょ予備のサイバーショットで撮ることに。
知り合いのカメラマンに能古島ロケについて、事前にレクチャーを受けました。
「実験が昼頃だと飛行するドローンは逆光になるので、絞りを調整した方が良い」とアドバイスをもらい、絞り優先で撮影。
枚数は全部で150カットほどです。
雑誌は印刷物なので、あらかじめ画像サイズをL:13Mに設定。事務所に戻ってデータを確認すると、かなりの高画質、鮮明な写りでしたね。
ズームを使ってアングルを工夫したことで臨場感のある写真になり、読者の目を惹きつけると、編集者も喜んでくれました。
サイバーショットは今も使っています。

サイバーショット DSC-WX500 (B) [ブラック]
好きなことを仕事に。もう1度ニューヨークで写真を撮りたい

ー最後に、好きなことを仕事にすることについてどう思いますか?
「子供の頃から将来はマスコミの仕事がしたい」と思っていたので、自己実現はできたかなと。
ただ、仕事は生まれもった素質や培った能力にもよるし、信念や運などにも左右されます。
一生懸命に努力したからといって、好きな仕事に就けるわけではありません。
自分の場合も、好きなことを仕事にできたというより「好きなんだから何とかつかみ取ってやろう」という強い気持ちがブレなかっただけかなと思います。
でも、好きな仕事で生活が安定するかは別問題です。
デジタルへの移行が良い例でしょう。
仕事をお願いしていた版下制作のスタッフは、みなさん仕事が好きで誇りを持っていましたが、パソコンとソフトに置き換わって続けられなくなった人もいます。
好きなことは変わらなくても、仕事はたえず時代や環境の変化に巻き込まれます。
だから、好きなことをしながらも、変化と上手く付き合うことが大事なんです。
ー今後の目標を教えてください。
周りの友人は田舎に引っ越してのんびり暮らしたいと言っています。
でも、私は全くダメなんです。
今も福岡の都心、天神界隈が生活圏で、忙しない都会生活をやめる気にはなれません。
だから、今後の目標と言うほど大それたことではありませんが、またニューヨークに住もうかと。
マンハッタンを闊歩すればいろんな出来事に出くわすし、ハプニングな写真も撮ることができます。
常にトレンドが生まれる街にいると、刺激を受けられるでしょ。そっちの方がボケ防止になるかもしれません(笑)
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