旅をしていると、ふと、休みたくなることがあります。それは本当に突然に訪れる感情で、例えば、「明日はあそこに行こう、ここをこう周って、お昼ご飯はあのレストランで・・・」と、ある程度の予定を終夜“よもすがら”に考えていた、北アフリカは、チュニジアの旅路で。翌朝ホテルで朝食を食べていた時に、「やっぱり今日はゆっくりしよう」と思い立って近くのカフェでまったり過ごしたことは、まさにその感情をよく表していると言えるでしょう。
「人生は旅なんだよ。」旅好きだったおじいちゃんは、昔、わたしによくそう言いました。「ありあ、人生は旅だから、たまには休まないとダメだよ。じゃないと、また歩き出せないからね。」
人生が旅なのかどうかは、おじいちゃんくらいの歳を重ねてみないときっと分かりませんが、旅には休息が必要であるということには、異論はありません。ひとり旅をするようになって、その通りだなあって、よく思います。
2024年2月。およそ3週間にわたって、地中海諸国をひとりで旅しました。そしてこの3週間のうちの4日間、わたしは休息日を設けました。今回のコラムは、活動的な旅の中身ではなく、4日間の休息日にフォーカスしてみましょう。読む方にとってこのフォーカスが有意義かどうかは分かりませんが、少なくとも、書いているわたしにとってはとても重要です。おじいちゃんの言った「じゃないと、また歩き出せないからね。」という言葉を、信じて疑いませんから。
さて、それぞれの休息日を振り返る前に、この4日間の休息日の行動には、ひとつ共通点があることを述べなければなりません。それは「チェキを使って昨日までの旅を見つめ直し、ありあという人間の思考を整理する」ことです。FUJIFILMのinstax mini LiPlayというチェキカメラを愛用しているのですが、今回のひとり旅では肌身離さず持っていて、メインで使っていたフィルムカメラと同じくらい、たくさんシャッターを切りました。
ここから先に記載する文章は、「地中海ひとり旅日記」から、各休息日に書いた内容をそのまま抜粋したものになります。そして掲載する写真は、旅の途中チェキカメラで撮ってプリントアウトして、休息日に実際に眺めた写真たちです。わたしがどんな旅をして、チェキカメラでどんな写真を撮ったのか、コーヒーでも飲みながら、ご覧になっていただけますと嬉しいです。
1度目の休息日:シディブサイードのカフェで(チュニジア共和国)

旅の咲き始めにしては、ここ数日の天気は、あまりにも曇りでした。幸いなことに、旧市街メディナの様相は、晴れている時のそれを想像できないほどに、灰色の空とよく合います。ほんのり湿った石畳みの道に、ゴミを漁る野良ねこたち。通りで商いをする人々は、どこか物思いに耽っているようで。
フランス門から10分ほどの通りにたたずむ錆びついた赤色自転車を見つめていたら、香水屋のおじさんが話しかけてきました。「今日は客が来なくて暇だから、覗きに来てくれよ。」天気とは相反する曇りない無垢な笑顔に、わたしの足はすぐさまそちらへ動きます。「知らない人についてっちゃダメだよ」って、あんなに両親から言われていたのに。


チュニジアに住む人々のこの陽気さに、わたしはとても感謝しています。「どこから来たの?」「日本だよ」このやりとりを何度したか分かりませんが、そうして返事をしたあと、笑顔とともにわたしへ向けられたまなざしは、キラキラしていて、“歓迎”というよりは、包み込むようなあたたかさを感じました。夜は10度を下回る2月のチュニジアであっても気温ほどの寒さを感じなかったのは、そのあたたかさのおかげかもしれません。チェキカメラで撮った写真をプリントアウトしてその場でプレゼントしたら、誰もがみな、喜んでくれました。もちろん、わたしも喜びました。

2度目の休息日:シチリア島を駆け抜ける寝台列車内で(イタリア共和国)

昨晩ローマテルミニ駅を出てから、寝台列車に揺られること、およそ8時間。長ぐつみたいな形のイタリアという縦長の国で、ひざの辺りからつま先まで移動するのはおよそ大変なことなのだなあと、スマホのマップを見ながら、朝食のクロワッサンをぱくり。終着駅のシラクーサまではまだ数時間ありますから、奮発して乗ったA寝台の個室で、さてなにをしようかな。時折車窓に現れる地中海を横目に、昨日までいたチュニジアの旅に、思いを馳せるなどして。

3度目の休息日:セント・ポールズ・ベイのホテルで(マルタ共和国)

バレッタからの路線バスに乗っている途中、前の席から、わたしのことを見つめる少年がいました。停留所7つ分くらいは見つめられていたものでしたから、その間アイコンタクトを取ったり、口角を上げて、微笑んでみたり。少年がなんという停留所で降りて行ったのかは定かではありませんが、最後降りる瞬間に手を振ってくれたことを、一期一会と言わんとしてなんと言いましょう。もう二度と会うことがない可能性の方が高いにも関わらず、停留所7つ分も、わたしと少年は見つめ合っていたのですから。

4度目の休息日:シラクーサの大衆食堂で(イタリア共和国)

昨日の朝りんごを買うために寄った市場で、商いをするおじいちゃんに「旧市街にはねこがたくさん隠れているから、よーくみてごらん。」と言われたものでしたから、ぽつり雨が髪の毛に滴るのもお構いなしに、わたしはねこを探しまわりました。1匹のねこを見つけましたが、隠れているというよりは、この壮麗たる旧市街に生きることを誇りに思っているかのような、堂々たる佇まい。あとで、昨日行った市場を訪れてみようかな。わたしにこの街のねこのことを教えてくれた店員さんに、このチェキ写真を見せたいんですもの。

まとめ:旅のあと、とある日のファミレスで(日本国)
旅をしている時、突然「そうだ、今日は休もう」という思考に至ってしまうのは、ちょうど先ほど、ドリンクバーのコーヒーマシーンから出てきたコーヒーがカップからあふれ出てしまったことと、似ている気がします。思ったよりもカップが小さくて、マシーンから出てくるコーヒーが入りきらなかったというのがオチなのですが、わたしの脳も体も、きっとそう、そんな感じ。
新しい物事を知り学ぶということは、旅の性質であり醍醐味でもありますが、それは同時に、たくさんの情報をわたしの脳や体にインプットさせることを意味します。つまり、ある時そのインプットが限界に達し、ちょうどコーヒがカップからあふれ出てしまいそうになるように、「これ以上はもう無理だよ~、一旦休もうよ~」って、わたしの脳や体は“休息”を求めるのです。
「チェキを使って昨日までの旅を見つめ直し、ありあという人間の思考を整理する」
先に述べた休息日におけるこの行動は、そのあふれ出てしまいそうなコーヒーをふたくちみくちほど飲みひと息ついて、カップにある程度の余裕を持たせることにつながる行動だと言えます。机の上やベッドの上に旅の日記帳やペン、カメラなどを置いて、それからカプチーノなどを注文して。チェキカメラの電源を入れたら、ノイズ混じりにフィルムがプリントアウトされること、およそ数秒。このプリントアウトが文字通りアウトプットになって、それまでの旅によってインプットした情報であふれ出そうなわたしの脳や体を、休息をもって整理してくれるこの現象を、わたしはもっと追究するべきでしょう。デジタルカメラで写真を撮った場合、たしかに、カメラやスマホの画面でどんな写真なのかを確認することはできます。しかし「チェキカメラを使って、その場でプリントアウトし1枚の作品として見る写真」と、「スマホやカメラの画面上で“確認”する写真」では、その写真に対するまなざしやわたしの脳の動きみたいなものになにか違いがあることを、わたしは感じ取っているようです。いわんや、チェキカメラにハマってしまったというわけです。

みなさんは、旅の途中、ふと「休みたい」という気持ちになることはありますか。そして休む時、どんなことをして過ごしますか。わたしは写真が好きで好きでたまらなくて、その中で出会ったチェキカメラが、運命のように、わたしの旅におけるインプットとアウトプットを調整する役割を果たしてくれました。
「じゃないと、また歩き出せないからね。」おじいちゃんの言ったこの言葉が誰しもに当てはまるかは分かりませんが、このコラムをご覧になってなにかを感じとってくださった方がいたのなら、わたしにとっては、これ以上の幸せはないわけで。
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