
その日、散歩を終えて帰宅した後、わたしは「写真家」という言葉について調べることにしました。辞書を使って言葉を調べるということを、子どもの頃からたくさんしているからです。「ひとつの言葉であっても、使う人の年齢や住む地域など、属性によって意味が多少異なることがある。」このことを思い知ったのは、確か小学3年生の時に友だちと喧嘩をしたから。何が原因で喧嘩をしたのかはよく覚えていませんが、それからわたしは、言葉を俯瞰してみるために、辞書を引いています。
辞書には、そう書かれていました。もちろん辞書の種類によって文言は少し変わってくるでしょうが、少なくとも、わたしの辞書にはそう書かれていました。
「へえ、趣味でも、写真家っていうんだ」
ぬるいゼロカロリーコーラをひとくち喉へとおし、ひとり言。それからわたしは、どんな人が「写真家」と呼ばれているか、あるいは自身を「写真家」と名乗っているか、さらに追求することにします。スマホの電池は62%から21%へ、同じ体勢で数十分、首と肩がちょっと痛くなるくらいの時間を。
そこから導き出した答えは、「わたしありあは、自身を『写真家』と位置付けよう」というものでした。
正直なところ、「写真家」という言葉について調べたここまでの数十分は、意味があったのかよくわかりません。だってやっぱり、誰が「写真家」と呼ばれ、誰が自身を「写真家」と名乗り、そしてそれぞれの位置づけにはどのような背景があるのか、性別や年齢、居住地など、あらゆる属性によって異なることを目の当たりにしたからです。
だからわたしは、言葉を俯瞰することのできる辞書における意味と、そして自身の生活の中で起きたこと、つまり近所のじじばば、子どもたちから「写真家さんだ!」と呼ばれたことを、自身の心の中に落とし込んで、そして自身を「写真家」と位置付けることを決めました。



