子どものころ、西洋絵画がたくさん載っている本を読むのが好きでした。おばあちゃんちの和室の本棚に置いてあったのですが、「ありあにはまだ早いかな〜」と言われるような分厚い本で、確かに文字は読めませんでしたが、ただひたすら絵をみて足を バタバタさせながら、ぬるくなったラムネを飲んでいた覚えがあります。
それからいく年が過ぎて、わたしは西洋美術史に興味を持ち始めるのですが、きっかけは「どうしてダヴィンチは、『モナ・リザ』の絵に“モナ・リザ”というシンプルで淡白なタイトルをつけたのだろう」という、絵そのものへの興味にも増して、絵に付随した「言葉」への問いでした。
しばらくして、その問いへの答えが分かることになるのですが、それは、当時中学生くらいだったわたしにとっては、衝撃的なものでした。あの絵を“モナ・リザ”と名づけたのは描いたダヴィンチ本人ではなく、ルネサンス期の画家ミケランジェロの弟子であり、自身も画家であったジョルジョ・ヴァザーリという人物の説明に由来するものだったのです。さらに、ヴァザーリはダヴィンチと会ったこともないという話ですから、なんともまあ、拍子抜けでした。


要するに、絵画や芸術作品にタイトルをつけるようになったのは近代以降のことであり、わたしの大好きなルネサンス期の作品は主に発注芸術でしたから、教会や王侯貴族の依頼を受けて描かれた作品にタイトルなどは必要なく、つけたとしても、それはあくまでインデックスとしての機能を持つに過ぎなかったのです。
さて、近代以前の芸術作品にはタイトルがつけられることはほとんどなかったという事実によって、わたしは何かを言いたいわけではありません。ただ、絵画や写真含めあらゆる芸術作品には、作者によってつけられたタイトルやその作品について説明するキャプションがあり、それら作品と言葉がセットになってひとつの芸術作品だと考えていた中学生のわたしにとっては、非常に衝撃的なことだったというだけです。
よく考えると、「タイトルやキャプションの付随していない作品」の存在はそんなに衝撃的なことではなくて、この文章を読んでいる方にも、「そりゃあるだろう」と思われる方がいらっしゃると思います。実際、子どものころ文字が読めなくても西洋絵画に魅了されていましたし、その時のまなざしは確かに、額縁の中だけに向いていましたから、わたしだって、そのことを元来知っていたはずなのです。
では、なぜこんなことを書くのか。それは、わたしはそのことをしばしば忘れてしまうからであって、連載コラムにも関わらず勝手なことをしているかもしれませんが、この文章は、その「忘れ」に対する、わたし自身のメモの役割を果たしています。

わたしの写真は、いつからかきっと、中途半端になってしまったのだと思います。元々家族や親戚に見せるために撮っていた写真は、見せる相手がきちんと決まっていましたから、どんな写真を撮りたいのかは明白なわけで、そのために、そのためだけにわたしは写真を撮ることができましたし、もちろんタイトルなんてものはありませんでした。でも、最近はそうではありません。家族や友だちに見せることを継続しつつ、SNSで投稿することを意識してしまったせいか、撮った写真には必ずといっていいほどタイトルやキャプションが付随し、そしてそれを当たり前のように考えてしまっていることによって、撮った写真そのものの持つ力が弱くなってしまいました。強い言葉で言うならば、写真そのもののクオリティを蔑ろにして、タイトルやキャプションで誤魔化している“甘えた自分”がいたわけです。

さて、だいぶ遠回りをしてしまいましたが、そろそろ本題に入りたいと思います。
「わたしは“わたしの夏”を誰にどう見せたいのか」についてです。
今回の文章でこれまでお見せした写真はすべて、わたしが今夏に撮った写真です。すべてがお気に入りで、かけがえのない写真たちです。この写真たちを、わたしは誰に、どう見せたいのか。答えは、分かりません。分からないというよりも、写真によって見せたい相手や見せ方が異なる、と言った方が良いかもしれません。
とにかくわたしは、もう少し思考の整理をする必要がありそうです。
写真そのものを見て欲しいのか、何か言葉を付随させたいのか、そしてそれを誰に見せて、同じ写真であっても、見せる人によってどう見せ方を変えていくのか。



