今回はもしかすると、番外編、となるのかもしれない。
写真家アラーキーとその奥様である荒木陽子さんの愛の軌跡を辿るため、陽子さんの著書「愛情生活」をもとに二人が訪れた場所へ赴き、写真コラムを綴るこの企画。
(この連載の細かな企画内容については#1をご覧になっていただけますと幸いです。)

今回は二人が訪れた場所ではなく、アラーキーが京都へ訪れると必ず立ち寄るという、金閣寺へ足を運んだ。
というのも陽子さんの文章によると、二人で京都旅行にきてもずっと一緒に同じ行動をするという訳ではなく、一日だけそれぞれ自由行動の日を設けるそうだ。
そして、その自由行動の日にアラーキーが必ず行く場所が金閣寺。
陽子さんはそんなアラーキーのことを「金閣寺狂写」と呼んでいた。
早速、鴨川からバスに乗り金閣寺へと向かった。



金閣寺へ来るのは、恐らく中学三年のときの修学旅行以来。
あまりよく覚えていないけれど、奈良で鹿と一緒に写った写真や、金閣寺の前でクラスの皆と写った写真が実家のアルバムに挟まっていた。
つい先日、ちょうど三島由紀夫の「金閣寺」を読み終えたところだった。
主人公の青年も金閣寺狂で、とにかく金閣寺に取り憑かれていた。
それほどまでに人々を魅了する金閣寺がどれほど美しいものだったのか、今一度見に行きたくなった。
金閣寺のような有名すぎて誰もが知っているシンボルは、なぜか行ったことがなくても行ったことがある気がしたり、もしくは行ったことがあっても行ったことがないような気がする、という現象が私にはよく起きる。
東京タワーや雷門などでも同じような事が起きる。自由の女神やエアーズロックでも起きた。
恐らく、インターネットやテレビ、ポストカードなどでそのビジュアルを小さな頃から見すぎているせいだと思う。
ビジュアルをみて想像したイメージと実物に差異がなければ無いほど、その現象は起きる。
それを世間ではデジャヴと呼んだりするのだろうか?
実物を実際に目の当たりにしたときは「おお、これが本物か」と少なからず感動するのだけれど、しばらくするとその記憶は自分のものなのか、それともメディアから得たビジュアルの記憶なのか、よく分からなくなってしまう。
感動や感情は永遠ではないのだなと思う。その持続時間を少しでも長くするために、みんな写真や動画を撮ったりするのかもしれない。




10年以上ぶりにみた金閣寺は美しかった。
三島由紀夫の「金閣寺」の通り、金閣寺は一度全焼し、1955年に再建された。
今現存している金閣寺はまだ70年も経っておらず真新しさが残っている。
確かに美しいのだけれど、派手さや煌びやかさの方が目立ってしまう。
日本人の性分なのか、やはりギラギラした成金感のあるものよりも、どこか奥ゆかしさを感じられるものに惹かれる。
焼失する前の金閣寺は、今よりもさらに人々を魅了するものだったのだろうか?
ただ、夕暮れに暗く沈んでいく金閣寺はより一層美しかった。
庭を散歩しお参りを済ませ、金閣寺を後にした。
のんびり写真を撮っていたせいで拝観終了時間になってしまい、何もお土産を買うことができなかった。





著者紹介:髙木 美佑(たかき・みゆ)

1991年生まれ、東京都在住。 日本大学芸術学部写真学科卒業。セルフポートレートや 自己の体験を中心に作品制作を行う。
2020年12月に初の作品集『きっと誰も好きじゃない。』を刊行。
■WEB:https://www.takakimiyu.com/
■Instagram:@miyu.takaki
■Twitter:@2h35m
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