こんにちは。杉本です。
今日は去年から一年間取り組んできた活動の結果と感じた感想の話をしようと思います。
写真は残酷なものなのかもしれない。と最近よく考えるようになった。
ぼくは基本的には何かのカメラを持ち歩いている。ぱっと撮った写真が作品になるなんて当然思ってなくて、ただ記録の意味なのか、絵日記のような感覚なのか、何か思ったら撮る。そうしている。
元々は練習のつもりだった。野球少年だって毎日ボールやバットに触っている子の方が週に一回野球をする子よりは上手くなる。そんなニュアンス。毎日ご飯を食べるように、毎日お風呂に入るようにカメラを持ってシャッターを切ってたら忘れる事ができるのではないだろうかと。息をするように写真を撮っていたら成長するかという実験だったが結論はNOだった。そこまで思考の余地のない写真をいくら撮っても上手くはならない。ただ、その当然の事実の確認とは裏腹に得るものもあった。

先日とある展示をした。
それは記録的な写真を一年ほど貯めるSDカードを用意しておいて、その中からなんとなく選んだものをランダムに飾る、と言うものだった。
レタッチも何もなく、カメラからSDカードを取り出してお店の端末に差し込みプリントしたのだが、写真の数は合計で2000枚を超えていた。スペースの問題で全てではなくその日は合計で50枚ほどプリントしたが、恐ろしいことに15枚ほどは、瞬間的にはなんの写真なのか、いつ撮ったものなのか分からなかった。しっかりじっくり考えると「あぁ、あの時か」みたいな気持ちになる写真もあって、最終的に10枚ほどが「本当に撮ったっけ」と言う感情で眺めることになった。
よく言えば絵にならない瞬間に対してもシャッターを切るようになっていて、意外と見れるなと思った。下手なんだけど、何にも縛られていない、カメラを初めて手にした時に自分の部屋でタバコを撮った時のような誰かにとっては意味のない写真が大量にあって、いつのまにかクライアントの望むものを撮りがちだったぼくにはその写真達はすごく優しくて嬉しいものだった。フォトグラファーとして撮っていない写真とでも言えば良いのか。よく言えば無邪気な写真たち。繰り返すが上手くはない。

ここまでしっかり覚えてないと写真を撮ると言う行為自体は僕にとって確実にスペシャルではなくなったと思う。それは確かだ。ただ、自分は記憶力がいい方と思っていた割には覚えていない事が多いなぁと言う気持ちになった。
ちなみに使用したカメラはCanonのIXYという昔のデジタルカメラである。
非常にコンパクトで取り回しがいい。それとLeicaQで撮影したものもこの記事中には含まれている。


冒頭の話に戻ろう。写真は多分残酷なんだと思う。ぼくがなんの気なしに撮った写真が教えてくれた。覚えていること。思い出せる事。ギリギリ記憶の淵に引っかかって旗めいてるもの。綺麗に大海に放り出されたもの。それでも残されたものには価値があると思う。残酷に感じたのは、覚えていないと言う事が最下層ではないと言う事だ。シャッターすら切られなかったものがたくさんある。いや、写真を撮っていない時間の方が長いのだから、そもそも記憶を留めておくための写真なんてものが本当の意味で存在するのだろうか。もし本当に記録と言う大義を掲げそのために全てを犠牲にできるなら四六時中GoProを胸元に付けている方がよほど記録的だろう。
残酷の定義についても考えなければならない。別にその辺の草木がぼくに写真を撮られたいと思っていないように、そもそもぼくに写真を撮られたいなどと考えている人がいるだろうか。いない場合、やはり残酷なんて言葉を使うのは相応しくないのではないか、と言うのもまぁ気持ちとしてはある。別に良い。この一言に尽きるのであれば残酷の対象はぼく自身であるし。
なんてことを考えさせてくるので結局残酷だなぁと思ったり。そんな事をつらつらと考えている。

くだらないことを日々考えている。写真が僕自身を示す瞬間はあるのか。基本的に考えても仕方ないことなんだとわかっているがどうしても考えてしまう。いつかどこかに収束するのだろうけれど。
色々考えはするものの、それでもぼくは写真が好きだ。写真で紡げる限りのものを紡ぎたい。覚えてなくても良い。写真では全てを残す事ができないと分かっていても写真がいい。もしかしたら見えないものがあるから良いのかもしれない。奥ゆかしさは想像に宿るのかもしれない。
そうやって日常を無意識に削ぎ落として残ったものがぼくの記憶になるのなら、やはり写真は残酷なのではないだろうか。ぼくがぼくである以上残されることのない自分の一面をぼくが自覚する事はできるのか、あるいは残されないと言う事はそもそもぼくの一部ではないのか。この問いの答えが見つかる日が来るのか。何も考えず楽しいだけで写真を撮っていたらだめなのか。

写真が仕事である以上、学びも大切だ。上手くなりたいとも思うしそのための練習もしている。がこういった本当にいい加減に撮られた写真もすきなのだ。多分全部に技術が詰まっていたら見ててうんざりすると思う。少なくとも今は、記録さえできていればいい。このことの意味がわかる日まで生きているかもわからないし。

一つだけはっきりしていることがある。結局ぼくにできることはひたすらに写真を撮ることだけだ。
ぼくかあの人のどちらかがいなくなる日まで。
今回使用したカメラ

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