子供の頃に得た感情や願いは今でも自分の中で萎まずに、むしろ存在を膨らませている。
簡単なもので言えば、「大間のマグロが食べたい」もそうだし、他にも色々と自分の中に潜在的に眠っている願いを感じる時がある。
それは大小様々で、夢というほど大袈裟ではないけれど願望と呼ぶには達成が簡単だったりする。

つい最近友人が他界した。ぼくは、まぁ改めて自分のこれまでを振り返ってみた。ありきたりかもしれないけど。
いつかは誰しもが死を迎えるのは至極当然の理であり摂理であり、約束である。

割と記憶力には恵まれていて、一歳になる前の実家の家具の配置を覚えていたりする。
流石に胎児の記憶があるほどではないが、そういう人間がたまに存在するらしい。
もちろん喜ばしいことではないし、あまり積極的に過去を振り返らないように生きていると思う。
振り返ってしまうと嫌な記憶もそれなりに鮮明に思い出さざるをえないから。
これからの話をするのはぼくにとって、とても優れた現実逃避の手段なのだ。
でも、というか彼が残した時間がというか、何かがそうさせたと思う。
見つめたくもない生きる理由を手探りで見つめようとする時間が必要だった。何日間かは夜な夜なタバコを吸いながらぼーっと振り返る時間が、ぼくには必要だった。

多分子供のころはテレビっ子だったと思う。今でも家の中が無音なのは苦手で見もしないのにバラエティ番組を垂れ流していたりする。
紹介されているご飯を食べたいと思ってそれを目当てに行き先を決めることもあるので、あながち無駄ではないと思いつつ無駄だなとも思いつつ。

そんな時に子供の頃の願望をテレビが叩き起こすことがある。
例えばそれは福井でカニが食べたい。だったりダイビングをしてみたい。だったり。
あぁそういえば、あの時こういう感情を抱いたな、という記憶が実家のリビングの風景と一緒に飛び込んでくる。
そうなるとその、子供の頃のぼくの願いを叶えてあげたいなと思う。むしろそれ以外に積極的に過去の自分と向き合う方法をぼくは持ち得ない。
天邪鬼な性格ではあるので根はそこそこ暗いタイプの人間なのだが、周りに対して、おそらくそれなりにポジティブに見せることはできていると思う。
ポジティブが理解できないわけではない、ただ心の底から前向きに生きるのは難しいんだろうなとは思う。彼は多分その引き金を引いた。
普段、よそから拾ってきたポジティブの仮面を被って生きてるぼくのそれを剥いだのだと思う。そんなことしなくて良いのに。

過去の自分を肯定したくて生きている。そういう自覚は明確にある。してあげたくて、と言う方が正確かもしれない。
過去は変えられないので、多分ぼくが過去に感じたことも変えられない。
変えられるのは未来だけだ。過去を誇るために何ができるのか、今の自分を後から好きになれるようにやれることはあるのか。あなたが子供の頃に感じた感情が今のぼくの幸福に繋がっているのか。色々な事を考えた。
仕事のこと、これからのこと、取り止めもないことを考える時間がいかに楽なのか思い知った。
まだ答えが見つかった訳ではないけれど、そもそも問いすら見つかっていない気がするけど、改めて決意をした。彼に笑われないようにしようと思う。

そんな風に思った。まだまだ全然整理もついていないし忙しさに逃げてる部分も大いにある。でもぼくなりに生きて、写真を残していく。
まだ思い出せていないあの子の願いも、フォトグラファーとしての夢も、仕事で抱える目標も叶うとは限らない。叶う方が奇跡だ。それでも残された僕たちは毎日を笑って足掻いていくしかない。
恩師の死や、友人との別れを経験してこなかったわけではない。それでも慣れる事はない。慣れる事ができたらどんなに楽かと思いつつそんなふうになりたくないとも思う。
誰しもが矛盾を抱えて生きている。彼もそうだったんだろう。過去の肯定が未来をも肯定してくれると信じている。

次に一緒にタバコに火を付けるときに、悪くなかったよと言える人生でありたい。優しいから、悔いのある人生で終わっても彼はきっと笑ってくれると思う。
今回使用したカメラ

※一部、Canon EOS R6とRF24-70mm F2.8 L IS USMを使用しております
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