みなさんは写真をどのように見ていますか?
写真の見方は人それぞれ。決まった見方はありませんが、写真史に名を刻んだ写真家たちの作品を見て「もっと理解したい」と思った経験はないでしょうか。
作品をより深く理解するためには、写真家の生い立ちや当時の時代背景など「写真を読み解く鍵」が必要です。
本企画「飯沢耕太郎の写真家ライブラリ」では写真評論家の飯沢耕太郎さんをお招きし、世界の名だたる写真家について「写真を読み解く鍵」を探っていきます。
飯沢耕太郎さんプロフィール

森山大道(もりやま・だいどう)
本連載の第一回は今や日本だけでなく世界を代表する写真家である「森山大道(もりやま・だいどう)」。
スナップ写真の巨匠と言われる森山大道の凄みに迫ります。
森山大道 Daido Moriyama
1938年大阪府池田町(現池田市)生まれ。粒子が荒く、躍動的な手ブレやピンボケなどが特徴の「アレ・ブレ・ボケ」といわれる作風で知られる。主に新宿や大阪などの街や人を撮影したスナップ写真の作品が多く、白と黒のコントラストがはっきりとした独特のスタイルや唯一無二の大胆な構図などが世界的な評価を受け、日本のみならず海外でも数多くの個展を開催。
第44回毎日芸術賞(2003年)、ドイツ写真家協会賞(2004年)、日本写真家協会作家賞(2004年)、ハッセルブラッド国際写真賞(2019年)、朝日賞(2020年)などを受賞。
2012年には写真家ウィリアム・クラインとの2人展をロンドンのテート・モダンで開催し、ファッションや映画業界にもその名を知らしめた。
森山大道とはどんな写真家?
ー森山大道さんはどのような写真家なのでしょうか?
飯沢さん:森山大道さんは今はもう日本を代表するというよりは、 20〜21世紀にかけて活動した世界の写真家の中でも、5本の指に入る大写真家になった人で、今、国際的には一番評価の高い写真家じゃないかと思うんですよね。
「写真家のノーベル賞」なんて時々言われることがある「ハッセルブラッド国際写真賞」っていうのがあるんですけど、それを受賞してる人は日本人で4人いるんですよ。
戦前から活動しているドキュメンタリー写真家の濱谷浩(はまや・ひろし)さん、それから杉本博司(すぎもと・ひろし)さんというニューヨークを中心に活動している国際的に評価の高い日本人の写真家の方、そして石内都(いしうち・みやこ)さんという、女性の写真家として本当に良い仕事をたくさんされてる方ですけど。
で、もう一人が森山大道さんということで…。そういうことを含めても、とても評価の高い写真家だということが言えると思います。
ーなるほど。そんな国際的に評価の高い森山大道さんは、写真家として独立されてから、主にどのように生計を立てられていたのでしょうか?
飯沢さん:主に雑誌に写真を掲載することだと思います。カメラ雑誌などのほか、『週刊プレイボーイ』や『アンアン』にも掲載しています。写真集の印税も多少は入ったはずです。ギャラリーでプリントを販売するようになるのは1980年代以降です。
森山大道の歩み
記事内で紹介する写真家・森山大道氏の歩みを紹介します。
※発刊した写真集は一部抜粋してご紹介しています
大阪府の池田町(現在の池田市)に生まれる。
商業デザイナーとしての活動を開始。
岩宮武二の写真スタジオでアシスタントとして勤務。
写真家のグループVIVOに参加するため上京するが解散していたため、メンバーであった写真家・細江英公に師事。
フリーの写真家として独立。
『にっぽん劇場写真帖』(室町書房)

『provoke』

『写真よさようなら』(写真評論社)

大スランプ時代
『光と影』(冬樹社)

『Daido hysteric no.4 1993』(ヒステリック・グラマー)
『Daido hysteric no.6 1994』(ヒステリック・グラマー)
『OSAKA Daido hysteric no.8』(ヒステリック・グラマー)

『ハワイ』(月曜社)

森山大道の写真を見るポイント
森山大道の歴史をなぞりながら、作風に影響を与えた出来事を紐解いていきます。
さまざまな街を渡り歩く「放浪型」
幼少期いろんな場所を転々とした経験により、東京や大阪、ハワイやブエノスアイレスなどさまざまな場所を撮影するスタイルに。
ー「放浪型」とはどういうことでしょうか?
飯沢さん:写真家の人たちを見ていると、簡単に言うと「定住型」と「放浪型」の2つのタイプがあるような気がするんですよね。定住型の人は、あるところにずっと住みついて、その土地をメインに撮っていくタイプで、例えば、荒木経惟(あらき・のぶよし)さんは東京に生まれて、東京で育って、今でも東京にいるっていう人ですよね。
それに比べると森山さんは、大阪の出身で島根に行ったりとか、千葉に行ったりとか、京都にもいたのかな?転々としているところがあって、子どもの頃から旅をしたり、移動したりすることの中で物の見方を育てていった…。そういうタイプの写真家に知らず知らずのうちになってたような気がするんですよね。
ー幼い頃から転々としていたのは、ご両親の影響でしょうか?
飯沢さん:そうですね。彼は大阪府の池田町(現池田市)に1938年に生まれたんですけど、お父さんが保険会社の人だったらしいんですよね。それで、子どもの頃は学校に入ってすぐ転校するような、1つの都市に馴染むことがない生い立ちだったそうです。
グラフィックデザイナーとしての経験
森山大道さんのスタイルとして知られている、大胆なフレーミングや白と黒の配色バランスなどのアート感覚は、グラフィックデザイナーの経歴が影響している。
ー森山大道さんはグラフィックデザイナーでもあったんですね。
飯沢さん:はい。森山大道さんは高校生ぐらいになって、絵を書いたりデザインをしたりすることに興味を持ち始めます。実はお父さんが若くして亡くなってしまったこともあって、自活しなきゃいけなくなり、高校を中退し十代の頃からグラフィックデザイナーとして活動していたんですね。って言っても、例えばカレンダー作ったりとか、マッチ箱のデザインをするとか、そういうことらしいんですけど。
ーデザイナーとしての経歴は、作品にどのような影響を与えたのでしょうか?
飯沢さん:森山大道さんの作品は一見すごいラフな感じで、荒々しい撮り方に見えるんだけど、デザイン的な骨格というのかな。写真の画面構成の仕方がすごくしっかりしていて、なかなか真似ができないような気がするんですよね。若い頃のグラフィックデザイナーとしての経験は、実は彼の写真の作り方、見え方のところですごく強い影響を与えてるような気がします。
細江英公に師事し暗室作業を仕込まれる
写真家・細江英公さんに師事した経歴が、「アレ・ブレ・ボケ」を生み出す大きなキッカケに。
ー森山大道さんが写真の世界に入ったのはいつ頃なのでしょうか?
飯沢さん:彼が20歳くらいの頃です。グラフィックデザインの仕事は大体デスクワークじゃないですか。まだ若かったですしちょっとフラストレーションが溜まってきたわけですよね。それで20歳ぐらいの時に外に出て活動するような仕事をしようということで、写真家の岩宮武二(いわみや・たけじ)さんの大阪にある写真スタジオにアシスタントとして入ります。
ー岩宮武二さんとはどのような写真家だったのでしょうか?
飯沢さん:ドキュメンタリーから、コマーシャルまで全部やれる素晴らしい写真家です。
その写真スタジオで何年か修業して写真家としての一番基本的なことを身につけて、でも大阪で仕事をすれば、やっぱり東京へ行きたいなっていう気持ちがあったみたいで、1961年ぐらいに東京に出てくるわけですね。
ー上京した後はどのように活動されたんですか?
飯沢さん:当時一番活発に活動していたVIVO(ヴィヴォ)※1っていうグループに入ろうと考えていたんです。VIVOは1959年にできたグループですけど、そうそうたるメンバーがいて、日本の写真界の中で前衛的というか、とても良い仕事をしていました。ところが、森山さんが上京した頃にはVIVOはもうすでに解散していたんですね。
岩宮さんの紹介状もらって、VIVOのアシスタントになるつもりで東京に出てきたのに、もうすでに無かったと。
ー満を辞して東京に出てきたのに、さぞガッカリされたでしょうね…。
飯沢さん:はい(笑)。途方に暮れくれていたんですけど、そこでVIVOのメンバーだった細江英公さんに「まあ、ちょっと頑張ってアシスタントやってみてください。」と言われ、細江さんのアシスタントとして何年か一緒に仕事をすることになります。
細江さんはその頃、面白い仕事をたくさんされていたんです。例えば、その中の1つに三島由紀夫を撮影した『薔薇刑』という写真集があるんですけど、その『薔薇刑』で森山さんは撮影の助手から暗室作業を経験しました。
『薔薇刑』という作品は多重露光などの凝ったテクニックを使っていて、森山さんはその時、暗室作業を徹底的に仕込まれたんです。
森山さんの作品は撮るだけじゃなく、暗室作業の中で森山さんの世界観を投影するように作り上げるところに特徴がありますから、その暗室作業の経験がその後の森山さんの作品制作に与えた影響はかなり大きいような気がします。
※1 VIVO(ヴィヴォ):1959年にできた写真家のグループ。メンバーは東松照明(とうまつ・しょうめい)、奈良原一高(ならはら・いっこう)、細江英公(ほそえ・えいこう)、川田喜久治(かわだ・きくじ)、佐藤明(さとう・あきら)、丹野章(たんの・あきら)の6名であった。
森山大道の代表作(写真集一覧)
ーではここから、写真集についてうかがっていきますが、森山大道さんが写真家として見出された一番最初のキッカケなどはあったのでしょうか?
飯沢さん:森山さんは独立したとき既に結婚されていたので、お奥さんからお小遣いをもらってよく横須賀に撮影に行かれていたんですね。そこで撮った写真がある程度まとまってきて、当時非常にレベルの高い作品を発表していた『カメラ毎日』という雑誌があったんですけど、編集者の山岸章二(やまぎし・しょうじ)さんに写真を見せてデビューしました。1965年ぐらいでしたかね。
ー山岸章二さんとはどういう編集者だったのでしょうか?
飯沢さん:山岸さんは『カメラ毎日』の名編集者と言われている方です。当時のいろんな写真家たちを全部引っ張り上げてきて、雑誌に掲載して、そこからデビューさせて、育て上げていくっていう…名伯楽って言うんですかね。そんな方です。
『にっぽん劇場写真帖』(室町書房/1968年)

森山大道のスタイルが完成したデビュー作
飯沢さん:『にっぽん劇場写真帖』(1968年)は森山さん最初の写真集です。
演劇集団の「天井桟敷(てんじょうさじき)※2」を率いていた寺山修司(てらやま・しゅうじ)さんという、当時の日本のアンダーグラウンドシーンの第一人者っていうのかな。劇作家で歌人で詩人であった方なんですけど、そんな寺山さんとの共著として発刊されました。
当時森山さんと寺山さんが非常に仲良くなるんですけど、寺山修司さんが森山さんの才能を見抜いたっていうのかな。一緒にいろんな雑誌で仕事をしていたんですね。
だからこのデビュー写真集は、言ってみれば寺山さんが森山さんにプレゼントをするような形で「俺(寺山さん)の名前を使って写真集を作る」ということだったんだと思います。
ーこの写真集にはどんな写真が収録されているんですか?

飯沢さん:この写真集は『カメラ毎日』で連載していた「にっぽん劇場」というシリーズの作品などが収録されています。次から次へと彼が撮影していった写真が現れてきて、いわゆるストーリーがないんですよね。「街の断片」そういうものが見える写真集です。
「にっぽん劇場」という壮大なタイトルで、その当時の日本人のどちらかというと土俗的な、血を感じさせるような部分だったのかな。ルーツみたいな部分を探っていくっていうことで、大衆演劇とか演歌とかを森山大道に撮らせたという、山岸章二の意図があったと思います。
①の写真は新宿の地下とかにいた、視覚にハンディがあっていわゆる物乞いをしてるような、そんなような人だったらしいんですけど、カメラを向けたらいきなり逃げ出したって話だから、本当は目が見えていたっていう(笑)。
だから、そういう出会いがあるわけです。とくに当時の新宿は森山さんのテリトリーとしてとても大事なのですが、その新宿周辺で撮ったような写真が多いです。
ただ森山さん本人は当時の日本のドロドロした部分が「自分自身を鏡に映して見る」ような感覚があって、あんまり好きじゃなかったそうです。もっとかっこいい、アンディ・ウォーホルみたいな感じのイメージとか、そういうのを撮りたかったらしいんですよね。
だから、結果的にこの写真集は「土俗的なドロドロとした日本人のルーツみたいな写真」と「アメリカやヨーロッパの前衛美術の影響を受けたような写真が」ごっちゃになっています。
ーなるほど。この写真集は当時の日本写真界でどのような評価を受けていたのでしょうか?
飯沢さん:この写真集は、当時森山さんが表現者としてやろうとしてきたことを全部吐き出していこう、投げ出していこうっていう風に作られたんですけど、当時の写真家たち、あるいは写真界とか写真の批評家たちが、みんなこの新たな表現のスタイルに注目しました。この時代の写真表現のまあ言ってみれば旗手というか、一番先頭に立つ人として認められたのが、このデビュー写真集ですね。非常に評価の高い写真集です。
ーそうなのですね。たしかに写真の並べ方を見ても、これまでの写真集にないものを感じます。

飯沢さん:そうなんです。写真の並べ方もこの写真集で注目したいポイントの1つです。さっきお話ししたようにこの写真集はストーリーがあるわけじゃなく、②のページのように小さな写真と大きな写真が、バラバラに配置されています。
このやり方は、森山さんが大阪時代に見たウィリアム・クラインという写真家の『ニューヨーク』という写真集に影響されたものだと思います。『ニューヨーク』の写真のスタイルである「アレ・ブレ・ボケ」っていわれるような、 綺麗な写真じゃなくて、その時代の騒然とした空気感が、そのままストレートに現れてくるような。そういう写真をどんどん取り入れていって、それを森山さんのスタイルで解釈して出されていますよね。
ーある意味森山さんのスタイルが確立された写真集でもあったのでしょうか?

飯沢さん:そうですね。森山さんのスタイルは大体この写真集で出来上がったと言っていいんじゃないかと思います。なにしろ、かっこいいですよね。③のページのような、グラフィック的なところが。
これやっぱり写真家になる前にグラフィックデザインの仕事をしていたことが非常大きく影響しているんじゃないかと思うんですよね。森山さんの真似をする人はたくさんいるけど、やっぱり彼のデザイン感覚は、そう簡単に真似できないところがある気がします。
ー!! この写真はなんの写真でしょうか?

飯沢さん:これ(写真④)も怖い写真でしょ(笑)。どっかのアパートですよね。 ただこれ、実はヤラセらしいんですよ(笑)。女優さんというか、役者さんを連れていってこういう風に撮った、彼のイメージの中で作ってる写真ではあると思うんだけど、こういう写真も時々入っているんですよ。
完全なノンフィクションだけでもないんですよね。フィクション的な要素も、時々取り入れたりして。
ーそうなのですね。そういったいろんな要素が混ざり合っていても1つの写真集としてまとまって見えるのは、やはり森山さんがデザイン的な才能も持ち合わせていたからなのかもしれませんね。
これは全て日本で撮影されたものなのでしょうか?
飯沢さん:はい。日本で撮影したものです。
先ほども触れましたが、とくに新宿あたりのイメージが非常に多いです。この写真集が発刊されたのは1968年、60年代の終わりぐらいですよね。この時期は日本が非常に激動の時代だったわけですよ。政治的に左右が対立していて、デモが起こって、大学が占拠されてっていうような。そういった壮然とした時代の雰囲気や社会の状況、まあ言ってみれば「カオス状態」とでも言うのでしょうか。それを、森山さんが自分のアンテナに引っかかってきたものをどんどん捕まえていって、それを吐き出していくと。
そして、その吐き出し方が、それまでの写真のようにストーリーがあって、何かテーマがあって、とかではなくて、「自分の生理的な感覚の中に入ってきたものを全部取り入れて投げ出していこう」というようなやり方なので、これが非常に新鮮だったんです。
それこそ、これまでもこのような撮り方をしていた人がいないわけじゃないけども、それを非常に説得力のあるやり方で実現したのが、この『にっぽん劇場写真帖』だったと思います。
※2 天井桟敷(てんじょうさじき):1960年代後半〜1970年半ばにかけ、小劇場ブームを巻き起こしたアングラ演劇の劇団
『provoke』(1968年)

名だたるアーティストと共につくった同人誌
飯沢さん:森山大道さんはその後1968年にできた『provoke』という同人雑誌の2号目から参加するようになります。
『provoke』はこの当時の森山さんが作り上げてきた「アレ・ブレ・ボケ」のスタイルを打ち出していくような内容だったんですけど、中平卓馬(なかひら・たくま)、多木浩二(たき・こうじ)、高梨豊(たかなし・ゆたか)、岡田隆彦(おかだ・たかひこ)の4人が作った、言葉と写真をラジカルに展開していくような雑誌でした。
1号目の正方形の判型が不評で、2号目から縦長に変わるんですけど、ここで森山さんが加わりました。

飯沢さん:2号目は「エロス」というテーマで特集を組んでいて、ラブホテルに女性と入ったその場面を撮るという、切り取り方も含め、非常にリアリティがあって面白いものでした。
3号目もかなりラジカルなことをされています。この当時、コピー機が普及し始めて、そのコピー機でわざとコントラストを強めて、グラフィックなテイストにするという表現技法が流行ったんです。これ(写真⑥)は森山さんの作品ですが、完全にアンディ・ウォホールの影響を受けていますよね。青山あたりのスーパーで撮った写真です。
この『provoke』は3号までしか続かなかったけれども、この時代を代表する媒体として、非常に影響力を持っていました。
ー影響力を持っている媒体であったのにも関わらず3号までしか続かなかったのは何故ですか?
飯沢さん:経済的な問題が大きかったのではないでしょうか。費用がかかりますし、500部くらいしか売れなかったようです。それと、同人の方向性がバラバラで、それ以上一緒にやっていくのが難しくなったのかな。
ーなるほど。そんな影響力のある媒体に参加していたということは、カメラマンとしても人気があったのでしょうか?
飯沢さん:そうですね。こういう同人雑誌だけでなく『朝日ジャーナル』、『週刊プレイボーイ』でも写真を撮っていて、本当に売れっ子になりましたね。
『写真よさようなら』(写真評論社/1972年)

「写真を撮るということ」を突き詰めたカオスな一冊
飯沢さん:1968年のデビュー作から数年で、森山さんはいろんな雑誌と仕事をするようになります。ただその仕事をしていく中で、だんだんと「自分の写真がなんなのか」ということを突き詰めて考えるようになります。
そして自分の写真の一番究極の形みたいなものを出していこうと、1972年に出したのが『写真よさようなら』(写真評論社)という象徴的なタイトルの写真集です。
ーたしかに。デビュー作の4年後(当時34歳)に出した写真集にしては、思い切ったタイトルですね。どこか投げやりになってしまったような印象すら感じます。
飯沢:そうですね。巻末で『provoke』時代の総決算のように、森山大道と『provoke』のメンバーの1人であった中平卓馬が対談しています。
これも有名な写真集で、『にっぽん劇場写真帖』はまだくっきりとイメージが見えていたんですけど、(この写真集は)「アレ・ブレ・ボケ」の写真はあるけれども、そうでもない写真も結構あるじゃないですか。フィルムの切れっ端が入っていたり。だから「写真を撮るということがどういうことなのか」を改めて彼自身が模索しながら、手探りかつギリギリのところでやっていった写真集です。

飯沢さん:『にっぽん劇場写真帖』は写真の並びや組み合わせをしっかりと考えながら、作られたと思うんですけど、『写真をさようなら』に関しては、伝説的な話で本当かどうかは分かりませんが「写真の束を床にばーっと投げ捨て、片っ端から拾っていってそれを並べた」といった話を聞いたことがあります。つまり、次に何が出てくるのかはほとんど偶然で、アクシデントのような感じで作られたということなんです。つまり実験だと思うんですよね。
彼自身の生理感覚が一番研ぎ澄まされていた時代に、アンテナに引っかかってくるものが断片的に積み重なっていって、1つの塊になっているという…。
日本人が作った写真集はたくさんあるんですけど、その中で一番過激な写真集だと思いますね。タイトルからしても「これで自分の写真は終わりだ!」ってぐらいの、そういう気持ちで作っているかもしれないです。
ー素人目から見ても、デビュー作と比べると『写真をさようなら』はカオス感がより顕著に出ているような気がします。
飯沢さん:上下も左右も全く関係ないんですよね。上下をひっくり返して見てもそんなに変わりがない。
⑦の写真のように、ポスターを写した写真や看板のイメージなどのモチーフも多く採用されているんですけど、印刷されたものや映像、ポスターなど、現実と世界の中にある断片的なイメージがもうごっちゃになってきて、どこからどこまでが映像で、どこからどこまでが現実であるのかがよくわからなくなってしまう、そんな写真集ですね。
ー『にっぽん劇場写真帖』は写真を見て「これがどんなシーンなのか」というのをイメージすることができましたが、この写真集はそれが難しいですね。写真を読み解こうと思っても頭が混乱してしまうというか…。
飯沢さん:多分ノーファインダー※3で撮っている写真が結構多いと思います。体と現実が一体化するような撮り方ですよね。だから撮っている本人も何が出てくるかわからない。
意味がよくわからない、ものすごく過激な写真集だと思いますよ。今だってこんな写真集作ったら怒られるんじゃないでしょうか(笑)。
そして実際にこの写真集は、評価としてはあまり高くなかったんですよ。「何やってるんだ」「ここまでやっていいのか」ぐらいな感じでね。
『にっぽん劇場写真帖』で確立した彼のスタイルをもう自分で壊してくような写真集じゃないですか。
なので評判が良くなかったという話なんですよね。
※3 ノーファインダー:ファインダーを覗かずに写真を撮る撮影技法
『光と影』(冬樹社/1982年)

10年のスランプから脱した復活の写真集
飯沢さん:『写真よさようなら』のあと、彼自身が自分の写真の世界に対してある悩みを持ち始めます。それが約10年ぐらい続くんですね。
ーある悩みとはどんなものだったのでしょうか?
飯沢さん:そうですね。『写真よさようなら』で「さようなら」と言ってしまったことが森山大道さんをある時期、縛り付けた気がするんですよね。
つまり「これで終わりにしてしまう」ということを宣言したことによって、 彼自身が写真を撮るという行為に対して「常にこれでいいのか」という問いを突きつけられてしまう…。
だから撮っても撮っても「これでいいんだろうか」と、自問自答みたいなことが始まるわけですね。
ーそんな状態になったら、写真を撮ること自体が辛くなってしまいそうですね。
飯沢さん:『provoke』は先ほどもお話ししたように、1960〜70年代の始めぐらいの一番激動の時期。政治的な対立も激しかったいわゆる「政治の季節※4」といわれた時期なんですけど、70年代を過ぎるとその政治的な対立が収束してしまったんです。
日本の社会現実もこういう激動の時代から、安定の時代に入っていきます。
「しらけ」って言葉がありましたね。僕らよく聞きましたけど、要するにみんなしらけてしまってて、生命力を燃やしていたものがどんどん消えていきました。
ーそんな「しらけた時代」というのも、森山大道さんをスランプに至らせた理由の1つだったんですね。
飯沢さん:でもその間も色々と実験しているんですよ。写真を2枚並べた写真集を出してみたり、東京を離れ北海道に住んで、北海道の写真をまとめて発表したりとか。ただ、いろんなことやるんだけど手応えがない。
その頃、体調もあまり良くなくてすごい痩せてしまってて、写真を撮ること自体が難しくなったそうです。70年代の終わりぐらいですね。大スランプ時代と呼ばれています。
ーその頃の写真は当時どのような評価だったのでしょうか?
飯沢さん:そうですね…。その時代の写真を見ていると結構良い写真もあって、やっぱり写真家としての本能で撮っていたという時期でもあるのだと思います。
ーその後スランプから脱することができたのはいつ頃なのでしょうか?
飯沢さん:1980年代に入ってきて、ようやくもう一度写真をちゃんと撮っていこうと彼の気持ちが定まってくるんですよね。
その頃『写真時代』という荒木経惟(あらき・のぶよし)さんが3本も連載していた雑誌があって、1981年に創刊されるんですけどね。
荒木さんが中心の雑誌なんですけど、その編集部の末井昭(すえい・あきら)さんというとても良い編集者が、森山さんを創刊号にフューチャーするんですね。インタビューをとって連載を始めます。それが『光と影』ですね。
ー末井さんという編集者の存在が大きかったんですね。先ほどお話しで出た山岸さんも森山大道さんを見出した1人でもありますが、編集者と写真家とは当時どういう関係性だったのでしょうか?
飯沢さん:そうですね。やっぱり写真家の仕事を見てると、編集者と写真家との関係や、グラフィックデザイナーと写真家との関係は、共同作業でやってる部分がやっぱり結構あるんだなと思います。
ーでは、スランプから脱したのは『写真時代』の連載が始まったことがキッカケだったのでしょうか?
飯沢さん:『写真時代』のほか『アサヒカメラ』などにもまた写真を発表するようになり、「自分の写真はこのやり方しかない」という確信が生まれたということだと思います。
ーそうなのですね。そんな確信を持って撮影した写真をまとめたのが『光と影』ということでしょうか。この写真集にはどのような特徴がありますか?
飯沢さん:『光と影』ってものすごくシンプルなタイトルですよね。やっぱり写真って考えてみたらそういうことじゃないですか?「世の中にある光と影」をフィルムで定着するということなので、僕が考えるに、もう一度写真の原点に戻る、「カメラ持って、外へ出て、それをちゃんと撮ればいいんだ」という風に撮り始めた写真なのだと思います。

飯沢さん:『写真よさようなら』のぐちゃぐちゃな感じじゃなくて、 ちゃんとものを見て、そこにある光と影を白と黒のコントラストの強い画面の中で撮っていくという感じですね。
これ(写真⑧)が写真集のきっかけになった写真です。芍薬の花ですかね。アサヒペンタックスを一台手に入れて最初に撮った写真で、 家から出たらこんな光で輝いている花を見つけて撮ったのだそうです。
飯沢さん:『写真をよさようなら』の写真は「死の世界」っていうのかな。暗い世界ですよね。『光と影』ではこういう明るい世界にもう一度戻すことを自らやったわけです。これはやはり彼にとってはすごく大きかったんじゃないのかな。ここで、改めて「写真がなんなのか」ということを考え直して、もう一度ゼロから再出発して…。
そうすると、モノの在り方がくっきり見えてきて、現実の世界の豊かさや輝きをちゃんと写しとることができるんだということに気づくんです。「写真は光と時間の化石である」と当時言っていますけど、光と時間が化石みたいに結晶していて、それを取り出して、印画紙の上にもう一度、その時の光と時間を再現していくっていうのかな。そういう風な写真の本当の原点みたいなことを、この時期にもう一回考え直して撮り始めたんです。これは本当に良い写真集だと思いますね。
※4 政治の季節:学生が主導する反体制的な政治運動が起こった時期や時代(1960年代後半ごろ)
『Daido hysteric』シリーズ(ヒステリック・グラマー/1993〜1997年)

森山大道のスタイルを確立した三部作
飯沢さん:80〜90年代は森山さんの今の写真に繋がるようなスタイルが完全に出来上がってくる時期になります。
その中でも90年代に出した『Daido hysteric』というシリーズがあって、 それがまたすごいんですよ。
数を少なくして見せる方法で撮る人がいる一方で、彼の写真の見せ方は、数というか量で見せる写真ですよね。
この『Daido hysteric』シリーズは一冊300ページ以上あって、もうこの時期には彼のこのスタイルが確立していたと思うんですよね。
この当時は構えて撮る大きな一眼レフではなく、「オリンパス μ(ミュー)」という小さいコンパクトカメラを持ち歩きながら路地を歩いて、路上で見つけたものをパッと撮ってまた次にパッと撮るというような、森山大道さんの身体感覚からシャッターを切るという「カメラと体がシンクロする」スタイルが出来上がってきました。
ーすごい写真の量ですけど大体何本くらいのフィルムで撮影されたものなのでしょうか?
飯沢さん:そのコンパクトカメラの場合は、フィルム500本分ぐらいを撮ると壊れるんですって。なので壊れた時点で1つのシリーズが終わりっていう風な(笑)
壊れるまで撮って、壊れたら次のカメラを買うというようなことをされていたそうです。つまり日常の中で呼吸をするのと同じような感覚で写真を撮っていたんですよね。それがこの時期の写真の特徴のような気がします。
ー壊れるまで撮るってすごいですね。フィルムだけでなくカメラも消耗品だったという…。『Daido hysteric』一番最初の写真集がno.4でしょうか?

飯沢さん:はい。ヒステリック・グラマー(アパレルメーカー)の北村さんという方が写真が大好きで、写真集をどんどん作り始めて、森山大道に撮り下ろしでお願いしますと依頼して、まとめた最初の写真集がこの『Daido hysteric no.4 1993』になります。
1993年にできてた写真集だから、撮ったのは1992年とかそれぐらいだと思うんですけど、これはね、どちらかというと街を撮っているんですね。写真⑨のような、路上のスナップでモノ寄り。
『光と影』はまだそれ以前のスタイルが紛れ込んでたわけだけど、この時期に路上を撮る森山大道のまなざしの在り方が出来上がってきて、なんてったってかっこいいんですよね。本当にかっこいいです。300ページもありますが、面白くて飽きないんですよね。次から次へといろんなものが見えてきて、「あ、こんなのもあったんだ」「こんな出来事もあったんだ」という風に惹き込まれていきますよね。

飯沢さん:我々は道を歩いて、いろんなものを見るという経験をずっと積み重ねてるでしょ。それを僕は「路上の経験」と呼んでいます。
その路上の経験はみんなが持っているんだけど、それを写真という形で一番的確に表現できているのが、森山大道さんのスナップだと思います。だから普遍性があるんですよね。
森山大道さんの個人的な物差しではあるけど、そこに自分の経験や自分の眼差しを重ね合わせることができる。写真⑩のような、どこかで見たことがある、見覚えのあるような、そういうイメージがあるじゃないですか。
僕はそこが彼の写真の強さだと思います。「あれ、なんだこれは」って心が動く時あるじゃないですか。その心の動きみたいなのを、そのまま写真として表現するスタイルですよね。
モノクロームのかっこよさってのはもちろんあるんだけど、この後カラーも撮り始めるからね。森山大道=モノクロームというイメージが強いけれど、カラー写真もなかなか良いのがあるんですよ。
だから今はその路上の経験というのを、歩くことだけではなくて、いろんな人たちの経験と重ね合わせることができるような、説得力のあるイメージになってるんじゃないかって、そんな気がしますけどね。
ーでも自分で撮ろうと思うと、こんなにかっこよくはならないですよね。
飯沢さん:そこはだから才能ですよね。切り取り方にある種のデザイン感覚もそうなんだろうけど、写真として見せる時の見せ方の中で非常に独特な表現力があって、やっぱり森山さんには天才的にうまく捕まえることができるような才能があるんじゃないかと思いますけどね。
多分、角度、切り取り方、それからプリントする時のコントラストの付け方の相互作用でこういう作品が成り立っていると思うんですけど。
本当にどこにでもあるような、なんでもないものないものなんですけど。そのどこにでもあるような、なんでもないものが、実は非常に面白くて強い力を持っている。そういう瞬間や空間があるということを常にアンテナを働かせて探り合ててるんじゃないかと思います。

飯沢さん:それでこれは『Hysteric』シリーズの6巻目ですけど、この写真集の特徴は写真⑪のように人が出てくるという点ですね。
「路上の人の在り方をどういう風に見てくのか」ということを探求した写真集です。
あまり人間らしいところを引き出していこうということではなく、人間もモノの一部になっている。路上の経験は、もちろんモノだけの経験じゃなくて、人と人との出会いの経験もあるわけじゃないですか。それをこの写真集では探求しようとしています。
ある種気持ちのいいところだけではなくて、人間という存在が持つ気持ち悪さ、グロテスクさもよく現れていますよね。こういう人たちがこういう具合に現れることの、その精度の高さや数の多さにちょっと驚くことがあるんだけど、良い写真家の特徴は呼び寄せるんですよね。
こういう場面があった時に、普通の人だったら見過ごしてしまうかあるいは起こらないようなことが、森山さんのような写真家が街を歩くと、どんどんどんどん起こってくる。ノーファインダーで撮ってる写真も多いと思うんですが、ノーファインダーでも、ちゃんと撮れているということは目が顔についてるだけじゃなくて、体全体についているんじゃないかって(笑)。
No.6は人と街という関係の中での集大成で、本当に人だけの写真集を一回作りたかったんだと思うんですよ。
ーNo.4はモノ、No.6はモノと人で写真が構成されていたんですね。No.8はどんな写真集だったんでしょうか?
飯沢さん:No.8は『Daido hysteric』最後の一冊ですが、大阪を舞台にしています。森山大道の生まれ故郷である大阪の街をもう一回見直そうという感じで、例のコンパクトカメラを持って、大阪に出かけて行くわけです。

飯沢さん:No.8は『Daido hysteric』最後の一冊ですが、写真⑫から分かるように、大阪を舞台にしています。森山大道の生まれ故郷である大阪の街をもう一回見直そうという感じで、例のコンパクトカメラを持って、大阪に出かけて行くわけです。
森山大道さんの写真はどこに行ったって森山大道なんですよ。
ハワイだって熱海だってそんな変わりはしないんだけど、その土地の持っている空気感を「地霊」って書いてゲニウス・ロキって言うんだけど、その街の独特の匂い、それから独特の雰囲気を醸し出すんですよね。

関東は少し取り澄ましたとこがあるけれど、大阪にはまだ土俗的なドロドロした部分が残っていて、そういうところに結構反応してるんじゃないかと思います。
自分の過去の記憶をたどりながら、自分にとっての大阪体験とでもいうのでしょうか。それを探り当てていったのがこの写真集です。
その環境の持ってる匂いがこの写真集には割と色濃く現れていますよね。写真⑬のように人もいればモノもあるし。
大阪の風景の持ってる過剰さがよく現れてて面白いですよね。
『ハワイ』(月曜社/2007年)

個人的かつ普遍的な体験をハワイで探る
飯沢さん:森山大道のスタイルはこのHysteric3部作でほぼ出来上がってくるのですが、その証拠として最後に『ハワイ』を見ていただこうと思います。
ー森山さんがハワイで撮影した意図などはあったのでしょうか?
飯沢さん:ハワイは当時から日本人に人気の観光地ではあったんですけど、この写真集でハワイについて「なぜか言いしれず懐かしいのだ」と書いてあるんですね。ハワイに懐かしさを感じて撮影しているということなんですけど、これはおそらく森山さんの写真の一番メインテーマだっていう風に思うんですよ。
全部を全部、森山大道色に染め上げているわけじゃなくて、ちゃんとハワイはハワイとしてあるんだけど、言ってみれば、さっきの「路上の経験」と同じじゃないのかな。個人的であるけれども、普遍的な体験っていうのがあると思うんですよ。それをこのハワイで引き出そうとしていると思うんですよね。
ー森山さんのスタイルとしては「アレ・ブレ・ボケ」が有名ですが、このヴィジュアル的な特徴とは別に「個人的であるけれども、普遍的な体験」を写真として切り取って映し出すというテーマがあったんですね。森山さんの写真を読み解くには後者がより重要になるような気がします。
飯沢さん:そうですね。ハワイに関しても彼自身の過去の体験がどうしても重なり合ってくる…。森山大道のハワイとしか言いようがない内容なんですよね(笑)。
記憶細胞の中に潜んでる断片的な記憶みたいなものを、もう一回引き出していこうとする。それが彼の写真の撮り方だと思うんです。
ーなるほど。土地ごとに森山さんがどんなものを写真に収めたのか、そんなところを見比べても新しい発見がありそうです。今回紹介いただいた写真集以外にもスランプ時代やカラーフィルムの写真など色々と見てみたくなりました!
まとめ
飯沢耕太郎さんと計6冊の写真集を見ながら探った写真家・森山大道。
グラフィックデザイナーとしての経歴や、森山大道さんに影響を与えた編集者など、影響作品を鑑賞するうえで新たな発見やヒントがたくさん得られたのではないでしょうか?
今回紹介した写真集は飯沢耕太郎さんが営む「写真集食堂 めぐたま」で鑑賞することができます。
ぜひ食堂にも足を運んでみてはいかがでしょうか。
写真集食堂 めぐたま

住所:〒150-0011 東京都渋谷区東3-2-7
アクセス:恵比寿駅より徒歩7分
営業時間:12:00〜22:00(L.O21:00)
定休日:月曜日、祝日
https://megutama.com/
あとがき
森山大道は写真を趣味にしている人であれば大概の人は知っている大御所の写真家ですが、写真家としての歴史がとても長く作品も膨大であることに改めて驚きました。
それにしても飯沢先生とお話しをしながらじっくり写真を見る時間はとても贅沢な時間でした…。
記事の中で紹介した『にっぽん劇場写真帖』(室町書房)ですが、調べたところ発刊当初のものは20万円近い価格で取引きされているようです…!ロマンですね。
MARSH編集部 まどか
森山大道の写真展・展覧会情報


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