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シャッターを切る前の話【第7回:もう撮れなくてもいいなんて】

ある時から撮影地で、たとえば近くに友人だったり見知った人がいたりして、撮影場所が割と混んでたりすると「わいは撮れんでもええし、先に撮ってー」みたいなことをよく言うようになった。もちろん、仕事だとそうはいかないので、あくまでもプライベートの時だけなんだけど、遠慮してるとかそういうことではなくて、本当にそう思ってる。もう僕がここで撮る必要なんてそんなにない、ちょっと前まではそんなふうに思ってた。別にわいが撮らんでも、他の誰かが撮るし、そんなふうに。ちょっとネガティブな感じの発言に見えるかもしれない。

でもこれ、本人はネガティブには思ってなかった。ところが言葉にしてみると、若干投げやりというか、写真への意欲を無くしてるみたいな受けとられ方をしかねないのは理解している。そして僕自身、実際、「撮れなくてもいい」という言葉の含意を、自分自身で掴みきれてなかった。僕はなぜそう思うのか、仮に撮り逃しても、本当に残念に思わないのか。それを先日、豪雨の中赤川花火を撮り逃した時に、「ああ、そういうことか」と、ちょっと得心したことがあった。

その日の夜、その日というのは赤川花火の夜のことだ。豪雨の中、必死に数枚だけ撮って、その数枚さえマトモな写真にならず、さらには帰る直前には山頂でこけてお腹を酷く打ち、水が流れる中ぬかるんだ山道を歩いて帰ってきて、機材も靴も服も何もかも泥だらけびしょ濡れになったのに、何一つ成果のなかった赤川花火の撮影の夜のことだ。その夜、機材の乾燥を終えた後、Twitterでスペース(声だけのインスタライブみたいなやつだ)をやった。最近大きな撮影があった夜は「ひとり反省会」をTwitterでやることが多くて、そのスペースの中では、僕は「撮れなくて残念だー」なんてことを話してたと思う。でもそうやって言いながら、気持ちの奥の奥の方では、実はそれほど残念でもない自分がいることに気づいていた。

いや、そりゃ残念ですよ。今年はずっと花火を撮り続けていたけど、そのほとんど全ての撮影はクライアントワーク。撮っても表に出せない写真ばかり。ようやくプライベートで撮れたのは尾鷲とこの赤川だけだった。尾鷲も凄まじい豪雨に降られたけどなんとか写真は収められた。でも赤川はほぼ全滅。そしてその全滅した赤川に行くために、結構なお金を使ってきたのだ。赤川は山形県、僕のいる関西からは飛行機で行かなきゃいけない。結局赤川で使ったお金は合計で10万円くらい。レンタカーやホテル、それから行き帰りの空港までの高速代金や空港の駐車場なんかが地味に痛い。10万円払って成果ゼロ。そりゃまあ、残念と言えば残念です。でもね、結局、そんな残念でもなかった。その気持ちの奥底にあったのは「僕は、この日この場所から、撮れなかったという記録を届けることができた」と思ったから。

「自分が撮れなくてもいい」は、「自分が何もしなかったこと」とイコールではない。僕は何度もの検討や準備を経て、その日その場所まで向かっている。そしてシャッターを切るかもしれないし、切らないかもしれない。数千、数万の選択肢の帰結の一つとして、ある被写体を僕は「撮った/撮らなかった」と、記録される。撮ったなら美しい写真と共に、撮らなかったとしたら「不在の証明」のようにSNSで。でも、そんなふうに僕が撮るにせよ撮らないにせよ、その日その瞬間、その被写体を他の誰かが撮っている。あの豪雨の夜も、別のどこかで誰かがあの大きな赤川花火をちゃんと撮っている。打ち上げ花火は、上から見ても横から見ても下から見ても、どこから見ても美しく、その巨大な立体の存在性は、カメラ一台では決して捉えきれないものだ。だが、僕が撮ったもの、あるいは撮れなかった方向とは別のどこかで、誰かがこの巨大な被写体を捉えている。そしてさらに他の誰かも、別の角度から捉えている。多くの写真家たちが、一瞬の、ただ一瞬の「その瞬間」にかけて、シャッターを押している。無数のシャッターよって立ち上がってくる被写体の立体性を想像した時、僕がこの数年言ってきた「僕は撮れなくてもいい」の中心が判明したような気がしたのだ。僕が仮に撮れようと撮れまいと、誰かが撮っているかもしれないし、その誰かも撮れないかもしれない。そしてその行為、その試み、その準備そのものが、巨大な「物語」として、たった一瞬に蓄積されている。まるで大河の一滴がそこに集まり、その一瞬に連なって流れてきたように。
しかもこれがただの誇大妄想ではなく、本当にそうであるということを知った時、一つの被写体に突き動かされる僕ら人間の、悲哀にも似た無邪気さに打たれたのだ。僕らはここで「撮れる/撮れない」、その一瞬に参画しているということの面白さと、尊さに、僕は惹かれ、こう呟く。「僕は撮らんでもいいから」。だって、他の誰かが撮っているから。そして他の誰かが撮ってくれた花火を、被写体を見ながら、僕が撮れなかった空白もまた、その写真の裏側にあるということを、僕はその場に行ったが故に知っているから。
そんなことをようやく僕は知ることができたのだ。赤川花火の豪雨の中で。

ああ、しかし、ちょっと待って、やっぱり残念だな、撮りたかったよ!半分強がり!来年撮りに行く!!これもまた、「撮れんでもええわ」の含意だ、来年もう一回山形に行く口実になるから!嘘、これも半分強がり!でも半分は本当。

撮れんでもええのよ、撮りたいけど。

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この記事を書いた人

フォトグラファー、文学研究者、ライター。関西大学社会学部メディア専攻講師。毎日広告デザイン賞最高賞や、National Geographic社主催の世界最大級のフォトコンテストであるNature Photographer of the Year “Aerials” 2位など、国内外での表彰多数。写真と文学という2つの領域を横断しつつ、「その間」の表現を探究している。滋賀、京都を中心とした”Around The Lake”というテーマでの撮影がライフワーク。日経COMEMOで記事執筆中。フォトグラファーとしての知見を活かして、インバウンドや地方創生事業、SNS運用のコンサルタントなどにも関わる。

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