風景写真以外の写真をうまく撮れない。
人に説明するときは「人間より小さいサイズの被写体はうまく撮れないんです」とよくいうのだけれど、スナップも下手くそだ。もちろんポートレートもダメだし、テーブルなんてひどいもんだ。写真仲間と飯に行ったとき、僕がスマホで撮った写真を見せたら「これ冗談やんな?」と失笑されるような写真を撮るのだけど、本気も本気、普通に撮っててそれなんだから、相当下手くそなんだと思う。

それどころか、そもそも突き詰めると風景写真も撮れていると思ったことってあんまりない。ところが、どういうわけか一応プロとして写真を撮っていて、なんだかそれらしいことを話したりもする。そんな曲芸が成立している理由は、風景写真は理屈に負っている部分が多いのと、じっくり考えて撮る時間が残されている場合が多いからだ。

風景写真の現場でよくあることなのだけど、ある程度慣れた人間が集まれば集まるほど、「最適解」に近づきがちで、同じような場所に立ちがちで、結果そこが混雑しがちなんてことは、もしかしたら皆さんも経験したことがあるかもしれない。そんなことが起こるのは、その場を構成している空間的な情報を整理していくと、「結局ここだよね」みたいな、合意ポイントに近づくからだろうと思っている。おそらく人間が風景から受け取る快楽の源泉が、脳内のどこかに潜んでいるのだろう。比率、コントラスト、カラー、あーだこーだ。もちろん撮っている時はそんなこと考えてなんかいないけれど、撮り終わった後に人に説明するときは、あたかも最初からわかっていたかのように「これは額縁構図ですよね」なんてことを言う。いや、考えてないから、撮る時

でも考えてないにも関わらず、なぜか似てくる。蓄積すれば蓄積するほど、感覚が整理されて、再現性が高くなっていく。そしてある時、自分自身が自分に縛られていることに気が付く。どの場所で撮っていても、同じような構図を再生産してしまう。どの写真にも額縁か、集中線か、1/3か、S字が出てくる。既存の秩序に世界を当てはめるのがうまくなる。これを僕は、「風景写真家のジレンマ」と、密かに名付けている。

それをぶち壊したいと思ったのだ。
だから、下手くそなスナップや人物写真に手を出している。

数日前、黒田明臣さんとコハラタケルさんと酒井貴弘さんの豪華なトークイベントがあって、ちょうど僕は撮影の帰りだったので音声だけ流しながら車の中で聞いていたのだけど、その途中でコハラさんが「自分にとって下手に撮ることが大事」というようなことを言っていて、すごく衝撃を受けた。
名手コハラタケルでさえそうなんだと。
多分、内的に完成してしまうことの恐怖に抗うために、「下手に撮る」ことを意識している。
ああ、そうかと。彼でさえそうなら、いわんや僕なんて。

その時ふと、Miseducationという単語が頭に思い浮かんだ。
20年ほど前にこの単語を冠したアルバムがグラミー賞を取った。
The Miseducation of Lauryn Hillだ。あれが出た時「随分変な単語だな」と思った。
Miseducation、どう訳したらいいんだろう。
「間違った教育」?含意があまりわからなかった。
ローリン・ヒルがどういう意図でMiseducationという単語を選んだのか僕は知らないのだけれど(アルバムは凄まじくいいのでぜひ聞いてほしい)、自分の知らないところで自分が膠着していく感触が日に日に強まっている中で、その単語がある時ふと自分の頭に浮かんだ。自分が生きるために、息をつけるために、作り上げてきた「教育」を解体していかなきゃいけない。自分という「制度」を、シャッターを押す指から追い出してしまわないといけない。

そんなことを考えながら、朝の京都を徘徊してきた。被写体であり、写真家でもあるお湯ちゃんが、ある日急に「朝の京都を撮りたい」とストーリーでつぶやいていたので、便乗させてもらったのだ。

この夏は少しこの路線を続けていこうと思っている。Miseducation of Takahiro Bessho。
それがどんな結果につながるのかはよくわかっていないけれど、シャッターを切ることが嫌になる前に、僕は何度も「下手」と「間違い」を探索する。



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▲別所隆弘さんによる打ち上げ花火の撮影テクニック解説記事

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