みなさんは写真をどのように見ていますか?
写真の見方は人それぞれ。決まった見方はありませんが、写真史に名を刻んだ写真家たちの作品を見て「もっと理解したい」と思った経験はないでしょうか。
作品をより深く理解するためには、写真家の生い立ちや当時の時代背景など「写真を読み解く鍵」が必要です。
本企画「飯沢耕太郎の写真家ライブラリ」では写真評論家の飯沢耕太郎さんをお招きし、世界の名だたる写真家について「写真を読み解く鍵」を探っていきます。
飯沢耕太郎さんプロフィール

ロバート・キャパ(Robert Capa)
今回ご紹介するのは、20世紀を代表する報道写真家の「ロバート・キャパ」。
伝説のフォトジャーナリストとして語り継がれる理由を検証していきます。
ロバート・キャパ(Robert Capa)
1913年ハンガリーのブダペストで生まれ。スペインの内戦や日中戦争、第二次世界大戦などで報道写真家として活動し、20世紀を代表する写真家と言われている。初期の作品は恋人であった「ゲルダ・タロー(ゲルダ・ポホリレ)」と共同で撮影したもの。現在も続く国際写真家集団「マグナム・フォト」の創設メンバーであり初代会長でもある。ICP(国際写真センター)を設立した「コーネル・キャパ」は実の弟。
ロバート・キャパとはどんな写真家?
ーロバート・キャパさんはどんな写真家だったのでしょうか?
飯沢さん:20世紀を代表する戦争写真家、と言われています。
僕らの世代なんか特にそうなんですけど、写真の道を志す人はキャパに憧れる人が多かったんですよね。戦争写真家というより、写真家の代名詞みたいな人だと思います。
『CAPA』というカメラ雑誌があるじゃないですか。考えてみたら、写真家の名前を冠した雑誌なんてほかにないと思うので、そういう意味でも「写真家といえばキャパ」と言われるような時代があったということだと思うんですよね。
ー名前が本名でないことで有名ですよね。
飯沢さん:そうです。よく知られていることですけれど、ロバート・キャパは本名ではありません。本名は「アンドレ・フリードマン」といい、ハンガリーのブダペスト出身です。お父さんはユダヤ人で、洋服店を営んでいたそうですけど、出自を見てもわかるように、はじめから写真家になろうと考えていたわけじゃないんですよね。
ー写真家になる前は何をされていたのでしょうか?
飯沢さん:フリードマンが高校生だった当時、ハンガリーは独裁政権でした。第一次世界大戦でオーストリアにハンガリー帝国が負けて領土が小さくなり、社会主義的な政権の時代があったんです。海軍軍人のホルティという独裁者が現れて、ファシズムと言われるような独裁主義国家を作って、それに対して反対運動が起こるんですけど、キャパがその反対運動に加わって活動していました。そのせいで警察に捕まってしまって、お父さんたちが色々手を回してなんとか釈放してもらうんですけど、学校に行くことはおろか、ハンガリーで生きることが難しくなって1931年に亡命します。
ーどこに亡命したのでしょうか?
飯沢さん:ドイツです。ちょうどその頃ドイツでは、報道写真が非常に盛んになってきていました。『ベルリン画報』という雑誌があるんですけど、それが200万部ぐらい出たという話もあります。それで、優秀な写真家や編集者たちがどんどん出てきていたんです。
フォトジャーナリズムが「新しい時代の流れを作っていく」という時代でもあったので、若者たちにとってみると写真家になることが憧れでもありました。ドイツには当時「デフォト」という通信社があって、フリードマンはそこの暗室係としてカメラマンのキャリアをスタートさせます。
ーカメラマンが最先端の職業の時代だったのですね。
ロバート・キャパの写真を見るポイント
ロバート・キャパの経歴をなぞりながら、作風に影響を与えた重要な出来事を紐解いていきます。
ゲルダ・タローとの共同作業
フリードマンと恋人のゲルダは架空の報道写真家「ロバート・キャパ」を作り上げ、写真家としての活動を本格化していく。
飯沢さん:この後詳しく解説しますが、ロバート・キャパの初期の作品はゲルダ・タローという恋人と共同で撮影したものです。
ーこれはキャパを語る上では欠かせない有名な話ですよね。ゲルダと行動したことがフリードマンの作品にどのように影響したのでしょうか?
飯沢さん:写真家としてのキャリアはフリードマンの方が先行していたのですが、ゲルダは行動的で勇敢な女性で、特に戦場の最前線でヒューマニスティックな臨場感のある写真を撮ることができるようになっていきます。彼女の撮り方はフリードマンにも影響を与えたのではないでしょうか。
戦時中に生きる人々のありのままの姿を捉えた写真
ロバート・キャパは戦時中の人々のありのままの姿やその人々の表情を忠実に捉えることに長けていた。
ーロバート・キャパの戦争写真の特徴はなんでしょうか?
飯沢さん:ロバート・キャパの戦争写真の特徴は大きく二つあります。まず一点目は戦時中に生きる人々の本来の姿をしっかり捉えているところです。これまでの戦争写真で写されてこなかった、軍人が戦う姿や休暇中の様子、庶民の暮らしぶりなどをありのままに伝える写真が多いんですよね。次に、集団を写した写真においてそれぞれの表情がストレートに伝わるというのも特徴の一つです。キャパの登場によって、生と死が一瞬の間に交錯する場面を生々しく捉えた戦争の写真を、誰もが目にするようになる。そのことによって、人々は報道写真の力を認識できるようになる。それが彼の最大の功績でしょう。
ロバート・キャパの代表作
ーまず、ロバート・キャパさんの写真集はたくさんあると思うのですが、キャパさん自身が作られた写真集はなかったのでしょうか?
飯沢さん:ロバート・キャパの時代は、作品を写真集として発表することがなかなかできなくて、アンリ・カルティエ=ブレッソン(※)も、戦後になって初めて写真集出すんですよね。雑誌や新聞などの媒体にはたくさん写真が掲載されましたが、いわゆる写真集にはならなかったと思います。ですから、キャパの場合は亡くなった後になって、こうやってカタログや写真集がたくさん発行されました。
ーなるほど。では今回は時系列に沿って、キャパの作品を追っていきたいと思います。
※アンリ・カルティエ=ブレッソン…20世紀を代表するフランスの写真家。主にスナップ写真を撮影し、ロバート・キャパやデヴィッド・シーモア、ジョージ・ロジャーと共に国際写真家集団「マグナム・フォト」を1947年結成した。
1931年:写真家としての活動をスタート

飯沢さん:写真①は、ドイツから派遣されて撮ったフリードマンの初期の写真です。カメラマンとして駆け出しの時代ですね。
ーこれはどういったシーンを切り取ったものなのでしょうか。
飯沢さん:デンマークのコペンハーゲンで開かれた、共産主義者たちの国際会議で撮った写真だと思います。
ー写真に写っている人は政治家ですかね……?
飯沢さん:この人はレフ・トロツキーというロシアの革命家です。この頃はロシア革命が起こって、世界各地で革命運動が盛り上がっていた時期ですが、トロツキーはロシアの独裁者であったスターリンと対立して亡命後、メキシコで暗殺されるという数奇な運命を辿りました。演説がすごかったということで知られていますが、これは身振り手振りで雄弁に演技しているトロツキーを写した写真ですね。
ー写真を見る限り、ネガの状態があまり良くなさそうに見えますね。
飯沢さん:上の部分が模様みたいになっていますよね。これは多分、カビが生えてネガがダメージを受けているんですよね。むしろこれが妙に面白いんですけど(笑)。
フリードマンは、こういう写真をドイツ国内の雑誌で発表するところから、カメラマンとしてのキャリアをスタートします。1920〜30年代ごろの、ドイツのフォトジャーナリズムの波に乗っかるような形で仕事を始めたんですよね。
ーこの頃、フォトジャーナリズムが進んでいたドイツで仕事を始めたことが、その後の活躍に繋がる転機となっているんですね。
1933年:ドイツからフランス・パリへ
飯沢さん:1933年にヒトラーが首相になり、ドイツにファシズム政権ができます。ファシズムは言うまでもなくユダヤ人を迫害するわけですよね。フリードマンはユダヤ人でありしかもハンガリー人で、ドイツ国内で活動するのが難しくなっていきます。そこでフリードマンはフランスへ渡ることになりました。
ーそれではフリードマンだけでなく、ドイツで活動していたフォトジャーナリスト全員に影響があったのではないでしょうか?
飯沢さん:そうです。この時期、フリードマンのようにドイツ外へ出たフォトジャーナリストがたくさんいて、アメリカやイギリスに渡った人もいます。迫害されたユダヤ人の優秀な編集者やカメラマンが亡命していって、ドイツ発祥のフォトジャーナリズムがだんだんと世界中に広がっていきます。アメリカの有名なグラフ雑誌『LIFE』は、1936年に「アメリカの新聞王」と呼ばれたヘンリー・ルースによって創刊されましたが、ドイツから亡命した編集者や写真家が重要な役目を果たしたので、「ヒトラーが作った」とも言われているんですよ。
ードイツからアメリカやイギリス、フランスなどにフォトジャーナリズムが移植された時代だったんですね。
飯沢さん:フリードマンは1933年にドイツを去り、一度ハンガリーに戻りますが、結局ハンガリーで活動するのも難しく、1935年にフランス・パリへ行きます。ここから“ロバート・キャパのパリ時代”が始まるんですよね。
ー“パリ時代”とは……?
飯沢さん:フリードマンにとって、非常に実りの多い時代なんですよね。何しろ戦前のパリは、文化の都・花の都と呼ばれていましたから。カメラマンに限らず、一旗揚げたい作家や音楽家、画家たちがみんなパリに集まってくるんです。そのため、当時のパリは非常に華やかで、なおかつ新しいフォトジャーナリズムにも理解がありました。フリードマンに非常に都合の良い時代だったんです。
ーそのパリ時代にはどんな媒体で活動していたのでしょうか?
飯沢さん:『Vu』(ヴュ)という雑誌です。“Vu”はフランス語で「見る」という意味で、英語のSeeに当たる言葉なんですけど、ドイツ発祥のフォトジャーナリズムを取り入れた雑誌で、フランスでも新たな動きが誕生することになります。

飯沢さん:『Vu』で写真家としての活動を始めて、例えば写真②のような写真を撮っています。これは第一次世界大戦の時の、怪我をしてリタイアした軍人たちです。良い写真ですよね。

飯沢さん:写真③はパリの証券取引所の写真ですね。
ー文化の中心であったパリでの交友関係などはどうだったのでしょうか?
飯沢さん:パリ時代にフリードマンにとって非常に大きな出来事がありました。それはゲルダ・ポホリレという女性との出会いです。ゲルダはドイツ生まれで少し年上なんですけど、後にフリードマンの恋人になります。元々ジャーナリスト志望でしたが、フリードマンの影響で写真家に転向し名前を変えたんです。それが「ゲルダ・タロー」という名前でした。
ー「タロー」って日本人みたいな名前ですね。
飯沢さん:じつはゲルダ・タローの「タロー」は岡本太郎の太郎じゃないかという噂があるんですよ。
ー岡本太郎ってあの芸術家の……?
飯沢さん:はい。その時期ちょうど岡本太郎もパリにいたんですよね。岡本太郎は漫画家の岡本一平と作家で歌人の岡本かの子を両親に持つ人でした。一平さんとかの子さんは岡本太郎が18歳の頃、パリで過ごしながら活動しようと太郎を連れて1930年代に渡仏したんです。一平さんとかの子さんはすぐ日本に戻ってしまうんだけど、太郎はそのままパリに残ります。そして、いわゆる前衛画家としての活動を始めたり、人類学の勉強したりしていたんですが、この時期にフリードマンたちと交流があるんですよ。
ーそれは確たる証拠があるのでしょうか……?
飯沢さん:岡本太郎の手記に「後にキャパになるフリードマンにコーヒーを奢ったことがある」と書いてあるんです(笑)。現ルーマニア領のトランシルバニア出身のブラッサイという写真家がいて、そのブラッサイとも岡本太郎は仲良くて、引き伸ばし機を貰ったとか、そんな話も書いています。
ー岡本太郎は当時パリにいたさまざまなアーティストと交流があったのですね。
飯沢さん:はい。パリの若いアーティストグループのようなものの中に、岡本太郎もゲルダ・ポホリレもアンドレ・フリードマンもいたんですよね。それでゲルダが岡本太郎の名前を借りて「タロー」と名乗ったのではないかという有力な説があるんです。面白いですよね。

飯沢さん:そんな風にフリードマンとゲルダは一緒に活動するようになります。写真④はゲルダの写真ですね。
ーフリードマンとゲルダはどういった経緯で「ロバート・キャパ」を名乗るようになるのでしょうか?
飯沢さん:ゲルダもフリードマンも当時はまだ若く、写真を撮ってもそれほど高く売れませんでした。少し高く売るためにどうするかを二人で考えて「架空の写真家の名前を使って活動する」というアイディアを思いつきます。これが「ロバート・キャパ」だったんです。
ーでは厳密には「ロバート・キャパ」という人物はいなかったということなんですね?
飯沢さん:はい。ゲルダが秘書でフリードマンがアシスタントのアメリカ人の写真家という触れ込みでした。それでゲルダとフリードマンが撮った写真をロバート・キャパという名前で発表することを始めるんです。
ーすぐにバレてしまいそうな気がしますけどね。
飯沢さん:フリードマンとゲルダがキャパであることは、周りは結構知っていたみたいですよ(笑)。でもそれはそれで、若い写真家を応援しようみたいなところもあって、暗黙の了解みたいな感じだったそうです。
ーゲルダに出会い、「ロバート・キャパ」という名前で活動を始めるということが“キャパのパリ時代”と言われる所以だったのですね。
1936年:スペインの内乱で生まれた奇跡の一枚
ーその後キャパはどのように名を広めていったのでしょうか?
飯沢さん:1936年にスペイン市民戦争、スペイン動乱という言い方をするんですけど、スペインで戦いが勃発します。当然パリの雑誌『Vu』は特派員を派遣するんですけど、そこでフリードマンとゲルダが選ばれるんです。
ーでは二人でスペイン市民戦争に赴いたんですね。スペイン市民戦争とはどういうものだったのでしょうか?
飯沢さん:スペインも共和国政府(民主主義的な政府)があり、そこにフランコという独裁者が登場します。彼がクーデターを起こして、それで共和国軍とフランコ軍が内乱のような形で戦うというのがスペイン市民戦争です。これが言ってみれば第二次世界大戦の前哨戦(ぜんしょうせん)でした。つまりファシズムの人たち、イタリアのムッソリーニやドイツのヒトラーはフランコを応援し、イギリスやフランスやアメリカ、つまり後の連合国が共和国軍を応援して義勇兵を送りました。アメリカの有名な小説家であるヘミングウェイは義勇兵でスペインに行っていたそうです。
ー歴史的に重要な戦争で、フリードマンやゲルダはどのような写真を撮ったのでしょうか?

飯沢さん:各地を転戦しながらスペイン市民戦争を撮影するなかで、決定的な一枚の写真を撮っています。写真⑤はキャパが撮った写真で一番有名で、写真集に必ず収録されるものです。
ーこれは撃たれた場面でしょうか……?
飯沢さん:コルドバという地域で戦う中で、フランコ軍の兵士が撃った弾に、共和国軍の兵士が当たって倒れようとしてる瞬間ですね。『崩れ落ちる兵士』と呼ばれる作品です。

飯沢さん:写真⑥のような前後の写真もあります。兵士が塹壕(ざんごう)を飛び越えていく一連の写真ですね。
ーこの写真はどのようにして有名になったのでしょうか?
飯沢さん:『崩れ落ちる兵士』はまず『Vu』に載って、“戦場における死の瞬間を捉えた決定的な瞬間の写真だ”と話題になったのが始まりです。その後、アメリカの『LIFE』などのさまざまな雑誌に転載され、ロバート・キャパという名前が一人歩きし始めるのですが、この写真に関してはいろんな説もあるんですよね。
ーいろんな説とは……?
飯沢さん:いわゆる「やらせ」、つまり『崩れ落ちる兵士』は「戦場で銃弾に当たった兵士を撮ったのではなく、演出したのではないか」というようなことがずっと言われ続けているんです。あまりにも真に迫った瞬間ですしね。
ーたしかに、まさに撃たれた瞬間を戦場でこのように撮影するのはかなり難しいですよね。周囲の人の証言などはなかったのでしょうか?
飯沢さん:この写真の人は死んでるわけだし、その周りの人たちの証言も、もう時間が経ってなかなか取れないので、実際にここでどんなことが起こって、フリードマンあるいはゲルダがこの写真をどういう風に撮ったのかということは、ずっと分からなかったんですよ。
ところが、2013年にノンフィクション作家の沢木耕太郎さんが、『キャパの十字架』(文藝春秋)という本を書くんです。沢木さんはキャパの伝記を翻訳したこともあって、ロバート・キャパに非常に関心がありました。それでこの一枚の写真がどんな風に撮られたのかを自分で調べ始めるんです。
実際にこの場所を特定して、図書館や資料館で資料を読み込んで、生き残った人たちをインタビューして……ということを積み重ねて、驚くべき説を立てました。
ー「やらせ」だという説ですか……?
飯沢さん:やらせというよりは、「弾に当たって倒れた瞬間ではないんじゃないか」という説です。この写真を見ていると、あまり緊迫感がないじゃないですか。身を乗り出して銃を構えていたら撃たれるに決まっているのに、ちょっと不自然ですよね。
ーではこれはどういう瞬間なのでしょうか?
飯沢さん:これは演習と言われる、要するに軍隊の訓練の時に撮った写真だと思うんですよね。
ほかにも、この兵士が坂を駆け下りてきて、転んだ瞬間を撮った写真を「撃たれた瞬間だ」という風に言ったという説もあります。
ーなるほど。それが調査の結果分かったということなんですね。この写真を撮影したのはフリードマンとゲルダどちらなのでしょうか?
飯沢さん:この写真を撮ったのは、フリードマンではなくて、ゲルダじゃないかという説があります。その当時、ゲルダは二眼レフのローライフレックス(6×6)、フリードマンは35mmのカメラを使用していました。調べてみたらこの写真のフォーマットが6×6だったそうです。だからこれはフリードマンではなく、ゲルダが撮ったのではないかと言われています。
ーこの写真は分からないことがいろいろと多いんですね。
飯沢さん:そうですね。沢木さんが書いた説に対して、反発があったりもして……。数十年前の話なので、真実は誰も分からないんですよね。ただ、沢木さんの説というのは綿密に調べられているから、信憑性が無いわけじゃないという風に思います。
ーその謎に包まれているところも、人々を惹きつける理由なのでしょうね。
飯沢さん:一枚の写真として見た時に、これはやっぱり名作だと思うんですよ。
「生と死が交錯するその瞬間をギリギリのところで捉えた」という迫力というか、リアリティがあるじゃないですか。こういう写真が一人歩きすることによって、「戦場における人間の死」がどういうものなのか誰もが理解する。
それまでの戦争写真って、結局こういう場面が無かったんですよね。三脚を付けて戦場を撮ろうとすると、遠い場所からしか撮れなかったんです。小型カメラができて、フィルムが使われるようになって、写真家が兵士と同じ目線で写真を撮れるようになって、ようやく撮れるわけで……。それに、こんな動きのある瞬間はなかなか撮れません。
戦争のイメージを変える写真であったことは間違いないと思います。戦場における人間の死は、不条理で突然起こるということが、この一枚の写真の中に凝縮されているわけですから、写真としての力はありますよね。
1937年:恋人・ゲルダの死
飯沢さん:その後もスペインを転戦していたわけですけど、1937年にフリードマンは休暇のために一時フランスに帰国します。一方ゲルダはその間一人で行動していて、そこで亡くなっちゃうんです。
ー戦争に巻き込まれてしまったのでしょうか?
飯沢さん:たしか町を撮っていた時に、トラックや戦車が逆走してきて、それで交通事故のような形で亡くなったそうです。
ー事故死だったのですね。
飯沢さん:この出来事が、またフリードマンの運命を変えることになります。ゲルダがいなくなって、キャパという名前をどうするのかという問題が浮上して、フリードマンはキャパという名前を引き継ぐことを決意しました。沢木耕太郎さんの書籍のタイトルは『キャパの十字架』ですが、十字架を背負うんですよね。ゲルダの死を背負いながら、ゲルダと一緒に作った名前を自分の名前として名乗ると……。
ゲルダとキャパは結婚こそしていませんでしたが、恋人同士で将来は結婚するということを考えて一緒に行動していたので、フリードマンにとってゲルダの死はすごく痛手でした。ただ、それと同時に「キャパ」という写真家が、ずっと残っていく一つのきっかけになったんですね。
ーたしかにゲルダが亡くならずにずっと一緒に活動していたら、いつかそれぞれの本名で、活動を別々に行うことになったかもしれませんよね。
飯沢さん:それ以降フリードマンはキャパという名を名乗りながら、素晴らしい写真をたくさん撮っていきました。
1938年:日中戦争
飯沢さん:キャパは一時中国に行きました。中国の日本軍を撮るために、『LIFE』と契約して日中戦争を取材します。

飯沢さん:写真⑦は爆撃で燃えようとしてる家に鍋で水をかけている写真です。キャパの写真って、人間の本来の姿がよく撮れている写真があって、なんだかちょっと笑ってしまうような、戦場におけるある種のユーモアが現れているんですよね。かなりシニカルなユーモアではありますけど。

飯沢さん:写真⑧はイギリス軍のパイロットです。打ち落としたナチス(ドイツ軍)の飛行機の数が機体に記されています。キャパはこのように、1939年のマドリード陥落を経て、スペイン市民戦争から日中戦争、第二次世界大戦を撮ることになります。
1940〜1942年:アメリカで活動
ー1940年以降はどんな活動をしていたのでしょうか?
飯沢さん:1940年になると、フランスがドイツに大部分を占領されてしまい、活動をするのが難しくなります。キャパは1940年から1942年ぐらいにかけてアメリカに逃れて、ニューヨークなどで撮影をしていました。この時期のキャパの写真もなかなか質の高い写真があるんです。
ー戦争以外の写真も撮っていたのですね。

飯沢さん:彼の人間性がよく現れている写真も結構あるんですけど……。写真⑨は有名な文豪のアーネスト・ヘミングウェイです。キャパとヘミングウェイはスペインで知り合って非常に仲が良くなるんですけど、ヘミングウェイがアメリカに帰ってきた時に、休暇で一緒に狩りをしているときの写真ですね。
ー隣の男の子は誰ですか?
飯沢さん:これはヘミングウェイの息子さんです。ヘミングウェイ、じつはこの後猟銃自殺をするんですけど、そういう孤独感のようなものがなんとなく伝わってきますよね。キャパはポートレートの写真家としてもなかなか優れた仕事をしています。
1942〜1943年:欧州戦へ
ーその後、キャパが戦場へ赴いたのはどういった理由からだったのでしょうか?
飯沢さん:アメリカは当時平和な暮らしが残っていたんですけど、やっぱりキャパは戦争写真家として戦場に戻りたいと言って、1942年にまたヨーロッパに戻ります。
ーその頃のヨーロッパは危険だったのではないですか……?
飯沢さん:敵国人として英国、北アフリカ、シリア攻略に従軍したので危険ですよね。その後、イタリアにも行っていますね。

飯沢さん:写真⑩、良いですよね。休暇中の兵士の「束の間の安らぎ」がよく現れています。

飯沢さん:それとこの写真⑪が名作だと思うんですよね。イタリアのお母さんたちが、亡くなった息子の写真を見せて嘆いている写真です。
ーキャパの写真の魅力はどんなところにあると思いますか?
飯沢さん:キャパの写真の良いところは、人間の持っている感情が非常にストレートに伝わるところだと思います。一人じゃなくて、こういう群衆っていうのかな、いろんな人たちがいろんな顔をしている様子を、画面の中に全部取り入れてしまうという撮り方をすることが多いんです。
一人ひとりの顔の表情をバラバラに切り撮るのではなく、この場の空気感みたいなものを、まるごと捉えるところが非常に優れていると思います。
1944〜1945年:ノルマンディー上陸作戦〜終戦
ノルマンディー上陸作戦
飯沢さん:キャパはその後、イタリアからフランスへ行きます。最初はドイツ軍やイタリア軍が優勢でしたが、徐々に連合軍が盛り返してきて、1944年に状況を決定的に変えた「ノルマンディー上陸作戦」が決行されました。
ノルマンディーは北フランスの町なんですけど、そこにイギリス軍とアメリカ軍の連合軍が上陸した作戦が「ノルマンディー上陸作戦」です。これがすごく激しい戦いで、ドイツ軍が海岸で待ち構えているところに、連合軍の兵士たちが、弾避けもなしに突っ込んでいって上陸するというような作戦でした。

飯沢さん:結果的には連合軍がこのノルマンディー上陸作戦に成功することで、戦争の行方が全部変わってくるわけですが、キャパは第二陣にカメラを携えて従軍しました。
写真⑫はそのとき撮った写真です。もちろん銃なんか持っていないので、こういう兵士たちの姿を、兵士の前から撮っていますよね。
キャパは連合軍の船に戻った後、そのまま気絶しちゃったそうで、非常に大変な状況の中で撮った写真だと言われています。
100枚ぐらい撮ったそうですけど、この写真がいわゆるスクープ写真として『LIFE』に掲載されることで、キャパの知名度がさらに上がりました。有名な「その時、キャパの手は震えていた」というキャプションで載った写真ですね。
ー100枚もの写真があった中で、この写真がフィーチャーされた理由はあったのでしょうか?
飯沢さん:100カットってことはフィルム3本ぐらいですよね。キャパはその3本のフィルムを兵士に託して、ロンドンに送りました。その後フィルムはとある通信社の若者が現像したんですけど、その若者が焦って乾燥を早くするためにドライヤーをかけてしまったんですよね。そのせいでエマルジョンと言ってフィルムの感光乳剤が溶けてしまったんです。
ーフィルムがダメになってしまったんですか……?
飯沢さん:そうなんです。100カットのうち助かったのは8〜11カットくらいで、あとは全部溶けてしまいました。
残っている写真はブレているものが多かったんですけど、この「ブレ」によってむしろその戦場の持つ緊迫感やギリギリの状況がよく伝わるといって話題になったんですよね。
ー溶けてしまったほかのカットも見てみたかったです。
飯沢さん:ちなみにそのドライヤーで乾かした暗室係は「ラリー・バローズ」という人でした。その後彼は写真家になってベトナム戦争を撮るんです。それでベトナム戦争で亡くなっちゃうんです。だからやっぱり運命って不思議ですよね。
キャパのフィルムを溶かしちゃったことは、多分彼にとってはすごいトラウマで、そのトラウマがずっと残っていてベトナム戦争まで行って、戦場の激しい戦いの中で亡くなってしまって……。ラリー・バローズはヘリコプターに乗っているときに撃墜されたそうです。
ー一枚の写真がいろんな人の運命を変えたと考えると、写真の持つ力が大きいことが分かりますね。
飯沢さん:キャパだってこの写真を撮ったということは、ゲルダの死を乗り越えて撮ったわけですしね。
そういう死を積み重ねながら撮っていくことで、名を馳せていったのがロバート・キャパです。
終戦
飯沢さん:ノルマンディー上陸作戦がうまくいったことで、今度は連合軍がどんどんパリに進軍してきて、その連合軍の兵士と一緒にキャパも移動していきます。

飯沢さん:写真⑬も良い写真ですよね。おそらく北フランス辺りの村のおじちゃんで、連合軍の兵士にワインを差し出している場面です。この靴が木の靴なんですよね。こういうところを捉えられるのが素晴らしいですよね。
ー戦時中なのになんだかほっこりする場面ですね。
飯沢さん:戦場の中で垣間見える人間性を、これだけ生き生きと捉える写真はそれまでなかったんじゃないですかね。

飯沢さん:写真⑭はその後フランスのパリが解放されたときのものです。溢れんばかりの喜びがよく現れていますよね。

飯沢さん:キャパの戦争写真の中で忘れられない一枚がこの時期に撮られていて、それがこの写真⑮です。これも有名な写真です。
シャルトルという郊外の町が開放されて、ドイツ軍が追い出されている場面です。赤ん坊を抱いた右側の女性が坊主頭にされて、追放されようとしています。
ーなぜこの女性は追放されているのでしょうか?
飯沢さん:この人はドイツ軍の兵士の子どもを産んだんですよね。それで戦争が終わった後、憎しみの対象になって、父親と町から出て行く際に、町の人たちから罵声を浴びせられているんです。僕はこの写真の中に戦争というものが、すごくよく凝縮されていると思うんですよ。憎悪が高まってく中での、人間の感情のぶつかり合いの瞬間をよく捉えていますよね。
ロバート・キャパの戦争写真は戦争の中における人間の在り方を暴くというか、引っ張り出すというか、そういう要素があって、それこそがほかの戦争写真と一味違う、そんな気がします。
ーたしかに、軍人だけでなく町の人々の写真を残すことで、戦争がどういうものであったのか、その全貌がよくわかります。

飯沢さん:キャパはその後ドイツ軍を追ってフランスからドイツへ渡ります。フランスからウィーン、オーストリア、それからドイツいう風に転戦していきました。写真⑯もすごいですよね。
ーこの垂れているのは血ですよね……?
飯沢さん:はい。本当に静かな写真ですよね。おそらく弾が飛んできている中で撮られたものです。連合軍の兵士が撃たれて倒れて血がスッと流れていて、静けさがよく伝わる写真です。キャパの写真の中にはこのように印象深いものがすごくたくさんありますよね。
1945年〜:戦後
ー第二次世界大戦が終わったあと、キャパはどう過ごしていたのでしょうか?
飯沢さん:第二次世界大戦が終わりを告げて、キャパは戦争写真家として失業状態になります。戦争が終わることは喜ばしいことなんですが、やっぱりキャパは物足りなさを感じてしまうんですよね。戦争を撮る写真家はどうしてもそういう部分があると思うんですけど、戦場にある種の「麻薬」みたいな要素があるような気がします。
ーたしかに、あんな写真を撮ってきている人であれば、物足りなさを感じてしまって当然かもしれませんね。
飯沢さん:キャパは平和の中のフラストレーションみたいなものを、常に抱え込んでいたと思うんですよ。

飯沢さん:それでも戦後もなかなか良い仕事はしているんですよ。写真⑰はイスラエルの建国時に撮ったものです。ユダヤ人であるキャパにとって、イスラエルというユダヤ人の国ができることは大きなことでした。良い写真ですよね。子どもを撮っている写真に優れた写真が結構多いですよね。

写真⑱はまだ戦時中の頃にスペインで撮られたものですが、こういった印象深い写真がたくさんありますよね。

飯沢さん:写真⑲は、船に乗ってイスラエルにやってきた人たちです。不安と希望がよく分かる写真ですよね。一人ひとりのストーリーが表情に凝縮されている、素晴らしい写真ですね。
ーたとえば有名人の写真や広告の写真などは撮影しなかったのでしょうか?

飯沢さん:撮っていますよ。写真⑳のピカソの写真がすごく良いんですよね。写っているのはピカソの孫じゃなくて子どもなんですよ。3人ぐらいと結婚したので。
ーいろんな芸術家との交流があったのですね。ゲルダさんの死後は誰かと結婚はされなかったのでしょうか?

飯沢さん:ゲルダとのことがあってということだと思いますが、結婚はしていません。右下の写真㉑の女性はイングリッド・バーグマンっていうスウェーデンの女優なんですけど、一時バーグマンとキャパは恋人同士だったそうです。
1947年:マグナム・フォト(Magnum Photos)設立
ーロバート・キャパが残した功績として「マグナム・フォトの設立」があると思うのですが、それはいつ頃の話なのでしょうか?
飯沢さん:マグナム・フォト(以下マグナム)は1947年に設立されました。マグナムは写真家による写真家のための共同組合みたいなもので、写真家の権利を守るための活動をする団体です。
ー写真家の権利を守るとは……?
飯沢さん:当時写真が勝手に使われたり、キャプションを勝手に書き換えられたりすることがよく起こっていました。写真を撮ってもお金が入らないという事態を防ぐために、世界中の有力な写真家たちが集まって団体を作ったんです。その初代会長がロバート・キャパです。
創立会員はロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、デヴィッド・シーモア、ジョージ・ロジャーの4人でした。国際的な団体で今でもその活動は続いています。
1954年:来日
ーキャパはマグナム・フォトの設立後どのような活動をしていたのでしょうか?
飯沢さん:初代会長ですからいろいろと大変だったと思うんですけど、写真家たちをまとめる仕事をしながら、毎日新聞社の招聘(しょうへい)で1954年に日本にやって来ます。
ーどういった経緯で招聘されたのでしょうか?
飯沢さん:ロバート・キャパの自伝である『ちょっとピンボケ』の日本語版を翻訳しているのが、井上清一さんと川添浩史さんという方なんですけど、この二人は毎日新聞社の特派員として戦前にパリにいました。元々、この二人とキャパはパリで知り合ってすごく仲が良かったのですけど、この井上さんと川添さんの尽力で、毎日新聞社がキャパを日本に招くことになります。当時日本では『カメラ毎日』という雑誌ができたので、そのキャンペーンのようなものを兼ねて……。
の一枚](https://goopass-marsh-image-prd.s3.ap-northeast-1.amazonaws.com/marsh/wp-content/uploads/2023/10/P7030054-2.jpg)
飯沢さん:そのようにして日本にやって来て撮影したんですけど、日本を撮った写真も悪くないんですよね。写真㉒がその時撮影した写真です。これも子どもの表情をよく捉えていますよね。
ー日本で庶民の暮らしのようなものを撮影していたんですね。
1954年:ベトナム戦争へ
ーロバート・キャパは日本にどのくらい滞在していたのでしょうか?
飯沢さん:日本では3ヶ月ぐらい活動していました。その時アメリカの『LIFE』から電話が来て、インドシナ戦争の撮影依頼が入ります。
その当時、インドシナ半島(今のベトナム、ラオス、カンボジア)がフランスの植民地だったんですけど、ベトナム軍がフランス軍に対して独立戦争を起こしていたんです。
『LIFE』はその取材のためにカメラマンを派遣していたのですが、当時派遣されていたカメラマンが帰らなきゃいけなくなって、ちょうど日本にいたロバート・キャパに撮ってもらうことになったそうです。
ーそこでキャパが依頼を引き受けたのは、やはり先ほどお話ししていたようなフラストレーション……「戦地に赴いて写真を撮りたい」という思いがあったからなのでしょうか。

飯沢さん:やっぱり戦争写真家の本能みたいのがあったんですよね。平和な日本を撮影するよりも、ベトナムに向かったのはそういうことだと思います。
それでフランス軍に従軍し、写真㉓の有名な写真を撮っています。
ーこういった写真を見るとキャパはやっぱり戦争写真家だということを感じますね。戦争のありのままの姿を捉えている気がします。
飯沢さん:ただ、そのようにベトナムで写真を撮っていって、1954年5月25日に亡くなってしまいます。
ー戦争に巻き込まれて亡くなられたのでしょうか?

飯沢さん:当時、キャパは南ベトナム・ハイフォン近郊のタイビンという町で、フランス軍の兵士たちと一緒に進軍していました。写真㉔は地雷を探している様子を写したものですが、右側の土手のようになった少し高い位置から軍全体の写真を撮ろうと登った時に地雷が爆発したそうです。
ーではこれがキャパ最後の写真ということですか?

飯沢さん:キャパは当時二台のカメラを持っていて、一台がニコンで、もう一台がライカだったかな……。その中の一台には白黒フィルムが入ってて、もう一台にはカラーが入っていて、カラーフィルムで撮られた写真㉕が一番最後の写真です。
ーのどかな風景ですね。まさかこの後に地雷が爆発するとは思えません。
飯沢さん:ノルマンディーのような、弾が飛び交う戦場を駆け回っていた写真家の最後の写真だなんて思えませんよね。でもこういう時が危ないんです。亡くなったのは41歳だから若いですよね。これから良い仕事をたくさんしなければならないという、脂が乗り切った時期でした。
逆に言えば、そうやって若くして亡くなったことがキャパを伝説にしていったという面もあります。残された写真も素晴らしいものが多いですから。
カラー写真
ー最後の写真はカラーでしたが、キャパの写真はカラーも残っているのでしょうか?
飯沢さん:カラーフィルムもたくさん撮っているんですよ。第二回のソール・ライターの時にお話ししたように、カラー写真っていわゆるアート的な表現には70年代後半ごろまで使われていなかったんです。
ただ、カラーフィルムはファッション写真やフォトジャーナリズムの世界では、70年代後半以前から使われていたんですよね。カラー写真はやっぱり迫力やリアリティがあるから、そういう意味でロバート・キャパも決してカラーフィルムを撮っていなかったわけじゃないんです。

飯沢さん:それを集めたのが『CAPA IN COLOR』という写真集で、これまで出てこなかった写真㉖のような写真が収録されています。
カラーだとイメージが変わりますよね。戦争の写真もモノクロで撮るのとカラーで撮るのと、かなりイメージが違うことががわかります。
―戦争写真以外も多く収録されていますね。
飯沢さん:キャパも結構いろいろと撮っていたことが分かりますよね。
ロバート・キャパの写真集一覧

I MAGES OF WAR(1964年/Paragraphic Books)

ロバート・キャパ展“戦争と平和”(1984年/PPS通信社)

CAPA&CAPA(1990年/東京富士美術館・国際写真センター)
](https://goopass-marsh-image-prd.s3.ap-northeast-1.amazonaws.com/marsh/wp-content/uploads/2023/09/P7030073.jpg)
ロバート・キャパ写真集[戦争・平和・子どもたち](1991年/JICC出版局)

CAPA’s WORLD ロバート・キャパ -その生涯と作品-(2006年/東京富士美術館)

CAPA IN COLOR(2014年/International Center of Photography, DELMONICO PRESTEL)
まとめ
ー最後に、飯沢さんにとってキャパが成し遂げた最大の功績はなんだと思いますか?
飯沢さん:キャパは後世の写真家たちにいろんな意味で影響を与えていますよね。何度も言うように、戦争写真のイメージを変えたということは間違いないと思います。
キャパの名前を冠した雑誌が出たり、ロバート・キャパ賞という賞があったり、マグナムという団体が全世界のフォトジャーナリストから憧れの的になるというようなことが続いていく中で、キャパの仕事もきっちり検証されながら未だに残っていて、何度も日本で展覧会が開かれて、その度に多くの観客を集めて……こんな風にキャパの仕事が今も評価されているのはやはりすごいことだと思います。
写真集食堂 めぐたま

住所:〒150-0011 東京都渋谷区東3-2-7
アクセス:恵比寿駅より徒歩7分
営業時間:12:00〜22:00(L.O21:00)
定休日:月曜日、祝日
https://megutama.com/
あとがき
戦争の悲惨さを伝え、報道写真の新たな可能性を見出したロバート・キャパ。20世紀を代表する写真家ということで、名前だけは知っていた人も多いのではないでしょうか?高速シャッターを用いた臨場感あふれる戦場の写真は、今見てもな被写体の人々の感情がダイレクトに伝わってきます。今回ロバート・キャパの写真を通して、戦争がどういうものなのか深く考える良い機会となりました。
今回紹介したロバート・キャパの作品や写真集は「めぐたま」で見ることができます。ぜひ足を運んで、直接見てみてくださいね。
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