途中駅の荏原町駅で一旦、下車し、近くのマクドナルドへ。ホットコーヒーだけにするつもりが誘惑に負けてマックグリドル® ソーセージセットを注文。人が少ないほうが好きな僕は2階・3階へと上がっていく。
3階まで上がるとそこにはトイレしかなかった。2階へ降り、ひとり席の窓際のカウンターへ向かう。途中、老夫婦が二人揃って退屈な授業中の高校生のようにテーブルに突っ伏して寝ていた。人生で初めて見る光景だった。
「どうしたんだろう」と少し心配しつつも「こういう日もあるよな」と思って通り過ぎる。

両親とは長い間、会えていなかった。長崎県出身の僕から言わせてもらうと、関東と九州の人の価値観は異なる。それは今回のパンデミックに対しても同様で、僕は「もう会っても良いんじゃないか」と思っていても相手は「まだだめだ」という状態が続いていた。
僕は先月、約3年ぶりに両親と会った。20代のときはなんとも思わなかったのだけど、30歳を過ぎてからだろうか。両親に会うたび「そうか。父と母も歳をとるんだ」ということを感じるようになった。寂しくて切ない感覚だった。

若いときは父と母の死をイメージすることさえなかった。当たり前のようにいる存在であり、ずっとそばにいてくれる存在だと思っていた。
とある撮影のとき。撮影中の会話でモデルの子の母親が亡くなったと聞いた。さらにその次の日。柔術家であり写真家でもある石川祐樹さんのラジオを聞いていた。タイトルは「さらば友よ」。誰がどう考えても亡くなったことを示唆するタイトルだった。

20代の頃。仕事が忙しすぎて……いや、自分の要領が悪かっただけだろう。仕事量は決して多くはなかった。だけど休日は自分の時間を最優先していた。
ちょっとでも休めるのであれば休み、お客様に頭を下げる日々。
親との連絡は疎かで、僕からLINEを送ることはほとんどなかった。親からLINEが来ても返事は一言だけ。もしくはスタンプだけ。ひどいやつだなと思った。
僕は誕生日プレゼントも渡していなかった。とくに父に渡すイメージは湧かなかった。それは父が嫌いだからとかそういうことではなく。僕にとっての父というのは父でもあり先生でもあった。
先生と言ってもいろんなタイプがいると思うのだが、例えば、道場に入った瞬間、教室に入った瞬間。空気がピリッと張り詰めるような雰囲気になる先生がいる。父にもそういうところがあった。少なくとも僕はそう感じていた。
ほかにも恥ずかしさや甘えもあったと思う。そして、終わりがないと勝手に思い込んでいたからこそ、プレゼントを渡そうという発想にならなかったのだと思う。


20代。建築の職人をやっていたころ。僕は東京から長期出張で宮城県の仮設住居に住んでいた。休日はボランティアに行き、これまでに見たことがない世界を見てきた。
出張を終えて、宮城県での生活を振り返ったとき、「僕は何を学んだのだろう」と繰り返し自問自答をした時期がある。
そのときに出てきた答えはいつも同じで、”日常を大切にしなさい”ということだった。そこには身近な人を大切にしなさいという意味も含まれていて、「ああ、自分は両親を二の次にしていたのかもしれない」とようやくそこで気づいた。

返事をするにしても、仕事の返事をしたあと。お得意さんにお土産は買うけれど、手荷物が増えるからといって両親には買わないときがあるとか。振り返れば振り返るほど最低なやつだと思った。

宮城県での出張を終え、東京に戻ってからは両親に誕生日プレゼントを送るようになった。いつか終わりは来る。いつまでも生きていて欲しいと願う気持ちは大切だけど甘えでもある。
甘えが勝つと二の次になってしまう。

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今回使用したカメラ・レンズ

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