はじめに
こんにちは!関西大学社会学部の2回生、西尾遥と申します。
この連載では、MARSH編集部から毎月送られてくるカメラを使ったフォトコラムをお届けします。
ただしこのカメラ、何が送られてくるかは、届いてみるまで分かりません。
全てを編集部のセレクトにおまかせしているからです。
こんな謎企画になった経緯はこちら。よろしければ覗いてみてください!

今回はこの企画の記念すべき一回目、そして一台目のカメラです。
結論を先にお伝えします。
今回届いたカメラは、被写体との向き合い方を変えさせ、【物語】のある写真を教えてくれました。
ぜひ最後までお付き合いいただけると嬉しいです!
それでは今月の「写真ではじめる自己分析」 はじめます。
届いたのは、「原点」でした
ピンポーン。
人生で一番、胸がざわめいたチャイムの音。
扉を開けると、箱を持った配達員さん。品目は「カメラ」です。
そう、今月のカメラが届きました。
まだカメラを始めたばかりの無知な初心者ではありますが、その中身を想像していました。
SONYかCanonか、案外Nikonとか?それともコンデジ界隈で人気を集めているらしい、RICHOのGR?
そんなことを考えながら受け取った箱は、想像よりもずっと軽いものでした。
これは絶対にGRだ。使ってみたかったから嬉しいな、と箱を開けたところ。
「フジ〜〜!?!?!?!?」(ごめんなさい、正確には富士フイルムですね。)
届いたのは、「FUJIFILM X100F」。
存在すら知らなかったこのカメラ。どんな機材なのか、調べてみました。
- センサー:APS-C
- 有効画素数:2430万
- 最高感度:ISO51200
- レンズ:23mm(35mm判換算で35mm相当)
ついでにFUJIFILMのサイトに載っていた、X100Fの謳い文句を引用させていただきます。
「カメラを操り、フレーミングを決め、シャッターを切る。写真を「撮る」という一連の所作を追及してきた。そしてたどり着いた新たな原点、X100F。」
この文章を見て、少し考え込みました。
新たな原点、ってちょっと難しい単語じゃないですか?たどり着いたってどういうことだろう、元に違う原点があったのかしら。
というか、そもそも「原点」というのが、畏れ多すぎます。原点を振り返れるほど、経験を積めてないと思うんです。
ド初心者の私は、ちなみにこれが「初FUJIFILM、初単焦点、初35mm」。
特に恐怖を覚えたのが、この35mm単焦点レンズという点でした。今までズームレンズしか使ったことないのに。
これはまずい、誰かに助けてもらわないと初回から大コケする。そんな予感が、いえ、もはや確信がありました。
震える手で、大学の写真実習の先生である、写真家の別所隆弘さんに連絡し、まずは35mmの特性を教えてもらいました。
35mmレンズとは

師はこう言いました。
「35mmは【物語】を映すレンズやねん。」
いい写真には【物語】があるそうなのです。
それは例えば自分の実感や経験がある写真のこと。写真を撮る時に、それらが写り込むらしいのです。
「写らんねんけど写るねんな。」
と別所先生は言うのですが、うーん、分からないかも。
初心者にはキツくない?と思ったのですが、「35mmを使うと上手くなる」との追加アドバイス。
「カメラってのは、それが物の見方を変えちゃうんよ。単焦点が難しいのは、こっち側の物の見方を、カメラ側に合わせなきゃいけないからで、だから単焦点の練習するのはいいんだよ。多様な物の見方ができるようになるから。」
カメラは自分の視野を変えてしまう。しかも、単焦点レンズは特にそうらしいのです。だからレンズ沼なるものがあるのかもしれません。
35mmを1ヶ月持ち歩けば、私の視野は大きく変わってしまうのかもしれない。
期待と不安に胸をざわめかせながら、X100Fとの生活が始まりました。
X100Fで撮るスナップ

もともと私はスナップばかり撮っていたことと、35mmといえばスナップというイメージがあったので、まずはカメラ片手に街に繰り出したのですが。
いや、ムズい。
最初に痛感したのは「距離感の難しさ」です。
今まで撮ってきた、標準ズームでのスナップ撮影とは全然違う。
自分から離れた場所に被写体を見出すやり方は、言うまでもなく、35mmに通用しませんでした。

撮りたい!と思っても、そもそも遠すぎる。余計な物が映り込む。上手く撮れたと思っても、なんとなくお行儀が良くなってしまって決まらない。1ヶ月間の相棒どころか、刺客が送られてきたかのような不安で胸がはりさけそうでした。
X100Fで撮るポートレート


スナップが全く上手くいかなくて心が折れそうな時、ちょうどポートレートを撮る機会がありました。
ポートレートは得意ではないので、撮ってみるか、くらいに思って臨んだのですが。これがなんと、今までにない気づきをもたらしてくれたのです。
今までポートレートに抱いていた苦手意識は、撮影する側による「演出」があるという点に集約されていました。
どういうポーズで、どんな表情で。色々ひっくるめて、どうやって撮ったらいいのか、よく分からなかったのです。
他の人の真似をしてみるけど上手くいかないし、いつも似たような写真になるし、結局被写体の表現力に任せきりだという実感がありました。
苦痛とまでは言わないけれど、楽しさが分からない。そんなポートレート撮影のイメージをX100Fは打ち砕いてくれました。

劇的な変化の背景にあったのは、スナップが失敗続きだった理由と同じ、「35mm単焦点レンズ」の持つ特徴でした。
このカメラではズームができないため、撮影者が自ら動かなければなりません。前後左右上下、全ては自分の移動次第です。
もし寄った写真を撮りたいならば、被写体に触れそうなほどグッと近づく必要があります。
この「近さ」が、なんだかよく分からない一体感をもたらしました。撮影する自分と被写体が、互いに影響を及ぼし合っているような感覚になったのです。上の赤ちゃんの写真も、カメラを意識してふざけてくれたから撮れた一枚です。
つまり言い換えれば、撮影者としての自分に「被写体と溶け合う様な体験」をもたらしてくれた35mmのポートレート撮影。
はじめは近くに寄ったからだと思っていたのですが、引きで撮る際も同じことが起きると分かりました。
自分の立ち位置一つで背景の構図が変わるし、その中で写る側もまた表情を変えていくからです。

今まで経験したことのなかった「被写体と溶け合う様な体験」。
これはさらに言い換えれば、撮影する自分自身が「同じ空間にいる存在」として撮影をしていた、ということでもあります。
こう書くと当然のことのようですが、今までの自分はなんだか「透明」で、写真を撮るときに存在していなかったような気がします。
でもそれが、存在するものとしての意識がありながら、撮影をするようになった。
もしかして、これが別所先生の言っていた「写らんねんけど写る」なのでしょうか。。。
X100Fで撮るスナップ 再チャレンジ

ポートレートで「撮影する自分」の存在に気づいてから、スナップが上手くいかなかった理由はそこにあるのかもしれないと思い始めました。
何を撮るか。いつ撮るか。
それを撮る自分との関係性も含めて、心機一転、再チャレンジしてみることにしました。
寝るとき以外X100Fを首からぶら下げて、撮りまくること十数日。ちょっといいかも、と思える写真がちらほら出始めました。





なぜいいと思えたのか、ここに3つのポイントを見出すことができました。
日常に潜む違和感を収めたもの。
タイミングが良いもの。
なぜこうなったのか気になるもの。
これってつまり「写真に想像の余地が残されている」と一言で言えるかもしれません。
最初にX100Fでスナップを撮った時、上手くいかなかったのは、単純に「距離」の取り方が下手だからだと思っていました。でも、根源的な原因は「撮影する自分」の不在だったのかもしれません。
流れゆく日々の中、すれ違うたくさんの瞬間の中から、「同じ空間に存在しているもの」として、いつ、何を撮るか。
いいと思った一枚も、そうでない一枚も、自分が「なぜ撮ったか」はなんとなく説明できるようになってきました。
この時に思い出した、「35mmは【物語】を写す」という言葉。
自分の実感や経験が写り込む写真って、もしかして、こんなかんじ?
あ、別所先生の言う【物語】ってこれのことだったのかも。
このことに気づくと同時に、ある課題も明らかになりました。
それは、【物語】のある瞬間が撮れたけれど、これは自分にしか分からないかもしれないということ。他の人にも、もっと分かりやすい一枚を撮れるのではないか、と思い始めました。
何を、いつ撮るかは意識し始めたけれど、どう撮るかという視点もあることに気づいたのです。
ここでの「どう撮るか」というのは、主に構図づくりとアングルの工夫のことを指します。
構図とアングルの存在に気付いた、ターニングポイントとなった一枚がこちら。

阪急大阪梅田駅をゆく鳩。まだ大阪に住み始めて2年の私より、よっぽど我が物顔で歩き回っていました。
はじめは普通に見下ろしてパシャリ。しかしちっとも魅力が伝わりません。どうすればいいのか、しゃがめばいいのだ。あっちには放射線の構図もあって奥行きがでそうだ。さあ鳩よ、こっちを向いてくれ。
単純なことの積み重ねですが、この一枚から「どう撮るか」も少しずつ考えるようになりました。
この1ヶ月で得たもの




今月の一番の収穫は、「自分は透明ではない」と気づいたことです。
写っている人、もの、そしてそれを撮る自分。
以前は撮る自分は全く透明で、その存在がすっぽり抜け落ちていました。
なぜここまで気づかずに来たのか、背景には、これまで続けてきたドキュメンタリー映像制作の経験が関係していそうです。
映像を撮影する際に、無意識のうちに「自分は存在しないもの」として対象を撮ることが当然になっていました。写っている被写体に関与せず、俯瞰した視点でそれらをカメラに収めるのが、撮影者の役割だと思っていたからです。
だから撮る瞬間における自分の存在を、意識することがなかったのではないか。そもそも認識すらしていなかった自分の姿は、X100Fでの撮影の中でどこまでもついて回りました。
35mmで徐々に撮影ができるようになったことはつまり、「ものの見方」が以前と変わったことを指すはずです。
その背景には、自分の視野に自分が映り込むようになったという変化が、通奏低音のように流れていました。
届いたのは、「最終回答」でした

写真の「原点」である35mmを手にしたことによって出会った、消し去ることのできない自分。
このことは少し逆説的かもしれません。
35mmというのは、今から70年前には「真実を写す」といわれた画角の一つであったからです。
「絶対非演出の絶対スナップ」を提唱した土門拳さんが愛用していた画角も35mmであったそうです(勉強中)。
この画角が「原点」といわれるのも、撮影する自分が介在しない「リアリズム写真」の考え方にゆえんがありそうです。
この「リアリズム写真」と志を同じくするドキュメンタリーを学んだ私に、「撮影する自分」の存在がすっぽりと抜け落ちていたのは当然のことかもしれません。
「原点」、35mm。
しかし、私は2001年生まれですし、写真を始めたのはようやく令和になってからです。
一番最初の機材にズームレンズを使用した私にとって、35mmというのはむしろ自分の存在を突きつけられる、新しい体験でした。
どうしようもなく生まれてしまう自己と被写体の関係。
だからこそ、35mmの画角で【物語】を得るには、自分と被写体が溶け合うような感覚が必要になったのかもしれません。
「非演出」と「演出」は切り離されたものではなく、地続きである(のかもしれない)。そのことに気づかせてくれたFUJIFILM X100Fは、私にとって、原点ではなく「最終回答」でした。

X100Fで撮った最初の写真。
SNSではありふれた構図ですが、35mmの画角で最初に撮った一枚に自分が写り込んでいたことは、ただの偶然ではないような気がするのです。
2022年2月の自己分析
2月のカメラ「FUJIFILM X100F」を使用して、自分はどんな人間だと分かったのか。
「FUJIFILM X100F」による気付き
・消し去ることのできない「自分」の存在
・ドキュメンタリーの経験が身体を構成していたこと
・それにより見方・撮り方のルールを無意識に定めていたこと
・「演出」もまた楽しめること
「自分って、思ったよりもずっと、自分のことを知らないんだ。」に尽きる1ヶ月でした。だからまだ、あなたはどんな人間なの?と言われても、うまく答えられません。
そもそも、ここで行っているのは、自己分析であり、自己分析ではないのかもしれません。
これまでの経験が全て連続的な矢印となり、そこでの成長を通して自己を定義する「自己分析」。一方でこのコラムで行っているのは、カメラと写真を通して、一直線的な自己の中に埋もれていた、あるいは忘れられていた、断片的な自分を見つける作業です。
その先に果たしてどんな自分が待っているのか、自分でもまだ分かっていません。ですが今回、少なくとも写真に「見えない自分自身の姿」が写ることは分かりました。次回以降はこの「見えない自分自身」がどんな顔をしていて、どんな性格をしているのか、探っていきたいと思います。
ここまでの写真を見ていただいたらお気付きかもしれませんが、スナップに写っているのは市井の人ばかり。少なくとも、人間のことは好きなのかもしれません。
「最終回答」は続きます(たぶん)
以上、「写真ではじめる自己分析」の初回(1台目)、FUJIFILM X100F編をお送りしました!
いろいろな、新しい自分に気付かせてくれたこのカメラ。MARSH編集部のセレクトが絶妙すぎて震えます。正直言って、返したくありません。この先もX100Fと一緒に生きていきたいですもん。初回だというのに、思わず最終回答に達してしまいました。
しかしまだまだ企画は続きます。
この先にどんなカメラが、そしてどんな自分が待ち受けているのか、どうなっちゃうのか分かりません。
ぜひ、来月もお会いできますように!
連載ルール

- 西尾遥に、MARSH編集部から、1ヶ月に一度【カメラ】が届く
- 西尾遥は、【カメラ】で写真を撮り、月に1回フォトコラムを制作・公開する
- 西尾遥は、本連載企画を通じて、自分の気づかなかった・知らなかった自分自身を見つける





